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夢は自己表現、らしい

1,こんな夢

こんな夢を見た。
前妻の面影を強く持っている、私の大切な娘が、ある日、突然に遠くへ引っ越しをしてしまう、その手伝いをする夢だった。娘の部屋にある家具は、そのすべてが形を見せてはおらず、なぜかその全部が白い布でくるまれた骨箱になって積み重ねられていた。その箱を私が泣きながらひとつづつ玄関先へ運び出すと言ったもので、恐くて悲しくて、たまらずに目を開けてしまった。箱には何が入っていたのか、あとで思い出そうとしたけれど、てんで分からない。
もしや、私の胸の奥の奥にしまいこみ、大きく重い蓋をしたはずの、言葉では誰にも絶対に言わない、あの悲しみ。4月末に合葬墓に「投げ入れてしまったもの」ではなかったのか?あの時の悲しみの塊を鷲掴みにされているようで、ぎゅーっと胸が痛み、息もできないくらいで、目覚めてもしばらくはとても辛かった。

2、夢判断

今回に限らず、なぜ私がそれほど夢を、その中の情景を、割と正確に覚えているのだろうか、考えてみた。
はじめの頃は、夢を見ると必ず目を覚ますのだから、それは、夢をみながらも、そのあまりの悲しさやつらさに、居たたまれなくなって、苦しくなって、思わず目を覚ますのだ、悲しみの強さで覚えているのだ、と信じ切っていた。
でも、夢とそのあとの時系列を整理してみると、「夢みる理由」といったものの正体が判明してきた。
つまり、私は夢を見たあとには必ず目を覚ますので、言い換えれば、夜中に見たのに目が覚めず、翌朝になって思い出したということはない。そうして夢のあと、いつも一旦は目を開け、あ、夢を見ていたな、怖かったな、と、ぼんやりではあるけれど、自分で承知できているのだ。床から起きるか否かは別にして、そのあと少し喉が渇いていたり、わずかな尿意を感じたり、そんな現象がある。だから、ほんの少しだけれど、覚醒し始めた頃に、夢を見てたと推察することができる。
ありていに言えば、覚醒し始めるほんのちょっと前に夢を見はじめて、わずかに意識が戻ってき始めた頃に夢を見終わっている、ということになる。するとその正体は本来的な夢の定義には該当しないとも言えるが、まあ、意識が1割くらい戻っているときに見た夢だけがこうして記憶に残っているのである。

若い頃フロイトの「夢判断」を開いた記憶があり、そこでWikipedia で「夢判断」と引いてみたが、この記事と連関は、あるようなないような。首肯出来るのは「夢は無意識による自己表現である」と言うことだ。

フロイトによれば夢の素材は記憶から引き出されており、その選択方法は意識的なものではなく、無意識的である。したがって一見すると乱雑な夢の内容においても無意識に基づいた統合性が備わっており、さまざまな出来事を一つの物語として連結させるものである。それにはさまざまな狙いがあるが、一般的には夢とは潜在的な願望を充足させるものである。つまり夢は無意識による自己表現であると考えることができる。



追伸:

因みに昨夜の夢は、なぜかスキー場のリフトに乗って空港ターミナル出国ロビーに向かうのだが、私は乗り遅れてしまい、それでも係のあんちゃんに英語で交渉し始めるというもの。Am I ~、いやam で始まる疑問文じゃあないよ!で目が覚めました。オレってバカ(笑)