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夜の寺にて

ある日の夜。約4ヶ月ぶりに街の居酒屋に寄って、気の合う友人とお酒を酌み交わした。そして夜10時もまわった頃か、この町の真ん中にある大きなお寺を通って帰宅することにした。雨が降ったりやんだりのその日であったが、調度私の歩いていた時は、雨も小休止していて、参道に敷き詰められた濡れた石畳をキュッキュッと音をさせて歩き、その音に何だか不思議な世界に迷い込んだ気持ちになって、この光景を残さねばと、写真を一枚だけ撮った。コロナ禍での雨の一日だったからなのか、長い参道を歩いても人の気配は余りない。見かけたのは仁王門下を横切って行った散歩の老夫婦一組だけだった。山門をくぐり本堂の真下に来た。そこには本堂へ上がるための大きな広い階段があるのだが、もちろん夜もこの時間になると本堂の扉は閉じられてしまっていた。私は階段の一番下に跪き(ひざまづき)手を合わせた。
数日前に去っていった、女の優しい顔が思い出された
その途端に私は一人、メソメソとしてしまった。ただでさえ泣きもろい年齢になって、なおかつアルコールの勢で涙腺が壊れてしまったのかもしれない。そうして「もういい、もう十分だ」そう一人声を出していた。
うううっと。階段の下で背を丸め泣いてしまっていた私。うううっと漏れる声が自分でも分かる。 
そうして、ややあって、泣いている自分を誰かに見られたかもしれないという恥ずかしさが急に私を現実世界へ戻し、やおら顔を上げ立ち上がり、こうつぶやいた。「もう帰ろうか」と。
泣いたのは、自分が好きになった女が、自分を見捨て離れていく、別れそのものが悲しかったのではない。好きな女が目前から消え去る、その寂しさといったものの質感が、遠い昔経験した、前の妻との別れに似ているという、只それだけを思い出して泣いてしまったのである。こんな声を上げて泣いたのは、久しぶりだった。
私達夫婦が32才の冬。妻が突然他界してしまった。私の父が必死に段取りしてくれた葬式も終わり、私の父母が暮らす実家にお世話になることとなった私は、11ヶ月の息子を背におぶり、2才11ヶ月の娘の手を引き、大きな鞄ふたつにはとりあえずの着替えを詰めて実家の玄関を跨いだ。数日した夜、子を父母に見て貰って、私は妻と7年間暮らした部屋を片付けるためにアパートに戻った。
鍵を開け、暗い部屋に向かって、「ただいま」と言っても、「お帰り」の返事がないのはアパートに向かう車上で自分に言い聞かせて覚悟の上だった。でも、でも、時折ふいに私を好きだよと言ってくれていた妻が、Yが、その部屋に絶対にいないのだという事実だけが、おれもおまえが好きだよ、と返すとにこりとしてくれた妻が、現にこうして私から離れてしまったと言う目前の事実だけが、どうしても私には許せない、有り得ない事に思えたのだ。「いないはずはない」と。そうして私は、いるはずの人がいないという厳然たる事実に驚愕し、震え泣いたのだった。暗い部屋の中でうずくまり声を出して泣いた。うううっと呻くように泣いた。
あのとき、妻という名の、Yという名の自分の好きな女が、自分から離れてしまった、自分を捨てていった悔しさ、といったものが実体を帯びてきて、こうしてまた自分が好きになった女が離れていった今、ふたたび私の頭をいっぱいにさせ、私は寺の本堂を離れたあともしばらくは、寂しさ悲しさに胸をつぶされそうになっていた。
20分ほど歩いただろうか、家に着く頃には涙も乾き、何事もなかったかのようにただいまと玄関を開けて、家人との日常生活に戻ったのだが、さすがにその夜はどうしても気持ちは晴れず心が疲れていたままだった。私は寝床に入ってもぶつぶつと小さい声で呟いていた。去っていった女になのか、死んでいった先の妻になのか。
「いなくなったからじゃない。一度好きになったら、ずっと好きだから、だからなんだ」

ちなみに、寺でうずくまって泣いた私が、それでもと立ちあがって足を進めた、その近くには、国宝であるこの寺を警備しているガードマンがいたのである。先ほどの独り言を言いながら泣いていた自分を、彼に見られてしまったのではないかと恥ずかしかったのだが、寧ろこのガードマンにとっては、私は不審者と見まがわれて当然の、濃い色の服装にフードを被っていたおっさんだったので、彼はしばらくは私の側5メートルくらいに位置したまま離れなかった。涙と鼻水でぐしゃっとした顔のまま「お疲れ様です」と声をかけたら、やっと私の側を離れて行ってくれて、正直ホッと胸をなで下ろしたのだった。
駅のホームにあるベンチで、失恋にポロポロと涙する若き女の横では、酔っ払って臭い息をまき散らしているおっさんが、いきなりオナラをぶーっとするという、実際の生活とはそんなものだという、どこかで聞いた笑い話を思い出して、私は今となっては赤面逆上の思いである。