その後
委託した墓石業者から「区画墓石撤去工事完了」なるメールが来て、私は先日、確認のため霊園を見に行ってきた。
薄い小雨の中、以前の区画墓に立ってはみたが、そこには確かに何もなかった。以前、敷き詰められていた白黒の玉砂利は跡形もなく、きれいに整地されていて、また覗いてみた墓(骨)穴には、新たに小砂利が敷かれ、次に来るであろう客を待っていた。
そうしてその時、墓穴を覗きながらも、私は確かに何らの感慨も湧いては来なかったのだ。
私は、「悲しみ」と言ったような感情の何ら湧いてこない自分に少しイラついて、「ちぇっ!」と舌打ちし、その場を去り、次に妻を納めた合葬墓に行ってはみたが、ここでも特にこみ上げてくるものはなかった。合葬と言う言葉の意味通り、妻だけの安居ではないからだ。拍子抜けしたまま、早く今の生活に戻りなさいと言わんばかりの、少し強くなってきた雨脚に追い立てられるように霊園をあとにした。
思えば、私はなぜ今まで何十年も、必死に「思い出」に縋り付き、またこうして今は、何もない墓を前に、いともたやすくそれを受け入れ割り切れることができたのだろう。
こう考えてみた。それは人の意識といったものは、少なくとも、私が考え意識するという行為は、つまり「心」と言うものは、目前の現実的な生活に日々翻弄されることによって、結果として簡単に融解し、迎合されてしまい、寧ろ私というご主人様を「忖度する」からなのだと。つまり現実生活に都合のいいように自分の意識は変幻しながら連れ添っていく。自分の脳は自分に都合良く機能する、決して反発しない。墓があればめそめそし、処分すれば涙も出ない、所詮そんなものだ。もうどこにも死んだ妻はいないと割り切ったあの日以来、再度こうして再び訪れても、何もないところでは何らの感傷も湧いては来ない。あっけないものだ。
ただ、それでも今も耳に残る、合葬墓の暗い穴に投げ入れた骨の、底に落ちて行くガラガラという悲しい響き。その音だけはしっかりと脳に刻みこまれ残っている。
「ガラガラガラ」
秒たりとも耳と頭から消えることはない。
さて、私のその後の毎日といったら、何だか無気力のままで、いつもボーッと口を開けてしまっている。痴呆男である。それは、会社では私は余り役には立っておらず、もっと言うと皆の嫌われ者だから、職場の隅にある椅子に座り、一人すねている、と言うのもあながち嘘でもないが、でも今はそう言ったわけではない。あれほど好きだった波乗りにも行かなくなってしまった。大改修していた近くの美術館がリニューアルオープンしたと聞いても大してそそられなくなってしまった。毎日ひねもす口を開けよだれをたらしながら、空などを見ている。心のよりどころ、よすが、を失ってしまった結末がこれだ。
そんな私を気遣ってか、別れた恋人からLINEが届いた。「デートしませんか」というありがたいお誘いのものだった。ただ今回の出来事については自分一人ですべて飲み込み乗り越えなければならない。この女の優しさにすがって胸のふくらみに顔を埋めても、それは自分の過去と向き合うことにはならない。すでに別れているのに、私の消沈した心を気遣い誘ってくれている元恋人に感謝しつつも、やはり私は断ってしまった。
15才も年下の元恋人。私にキスを懇願する時の欲しそうでいて切なそうな顔、尻を叩いたときの甘い叫び声、そして女の芯から溢れ出る蜜。こんな打ちひしがれた日々の中でも、都合の良い私の脳だから、年甲斐もなく、恋人との行為を思い出しては、私はこっそり自慰をする。
謂わばただの痴呆男である。
見出し写真は、町を徘徊放浪していたとき見つけた石版。「奉納 紀元二千六百年」と刻まれている。建国以来最大の祝いの年であった昭和15年。こんな田舎での催事の記録に、あの年の突拍子もないめでたさを想像するに難くない、そんなプレートであった。