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法政大学沖縄文化研究所「沖縄を考える」を聴講する

いくつかの大学では一般社会人も聴講できる講座があるようだ。しかしこの法政大学沖縄文化研究所の主催する総合講座「沖縄を考える」は、前期後期合わせて27,8回開催されているようで、しかも事前の申請も必要なく無料。午後3時からの講義とのことなので、同日午前に見た日本近代文学館「太宰治展」のあと、この授業を聴講する事にした。

1、講義

前期日程の第5回は「対馬丸から今を考える」
講師は沖縄県那覇市にある対馬丸記念館の理事で女性の方。
1時間半の講義では、対馬丸事件にいたる戦争の流れ、対馬丸事件のおおよその経過、そこから今の若者たちに伝えたい三つの事、を講義されていた。 

2、対馬丸事件

太平洋戦争の後半、戦線での敗北が重り、とうとう絶対国防圏のサイパンが陥落した状況のなか、アメリカ軍の沖縄侵攻が予想されてきた。昭和19年、国と沖縄県は住民の集団疎開を始める。そして8月22日。疎開船として1700余名を乗せ鹿児島へ向かった対馬丸は悪石島付近の海域でアメリカ軍の潜水艦ボーフィンによる魚雷攻撃を受け沈没。学童700余名を含む1500名が死亡。しかし以後の疎開に支障をきたす事を懸念し、厳しい箝口令がしかれ、事件の実体は戦後しばらくまで秘匿されていた。近年の調査では対馬丸の引き上げは困難と判断。かわりに学童らの鎮魂と事件の伝承、平和教育を目的として対馬丸記念館が那覇市に建てられた。

3、感想

少し厳しい感想かも知れないけれど、講師の話は概して「対馬丸記念館を訪れた観光客へのガイドで話される程度」の内容で、彼女の余り抑揚のない淡々とした口調とともに、対馬丸事件が太平洋戦争の中の一つの事件として何が特徴的で何を教訓化しているのかを明示しないまま時間が過ぎていったというのが正直なところ。
私の考えるこの事件の特徴は、
1,対馬丸は老朽の輸送船で、学童800名を含む沖縄からの疎開船であったことで、一瞬にして多くの子供の命を失い、また送り出した家族や教師に強い罪の意識(サバイバーズ・ギルト)が残ったこと。
2,事件後、厳しい箝口令の下、戦後しばらくまで、乗船者の人数、事件の真相(機関の故障で減速した?魚雷をよけるためのジグザグの航路をとらず直進した?)が不明のままだったこと。
3,戦争で犠牲になるのは常に無辜の市民であり、沖縄戦の特徴である、島民が軍隊の巻き添えになり犠牲になったという、悲惨さを前哨する事件であったことだ。
聴講生の7割くらいは20才前後の女子学生で対馬丸どころか沖縄戦すらも知らないだろうから、講師もあえて専門的な話を控えたかも知れない、なぜなら頂いた手元のパンフレットは、事件の詳細が時系列化され数字化されていて、その実態を把握するのに十分な資料であったからだ。

4、外間守善先生

講師は講義の最後に若い学生に向けた三つの大切なことを話されていたが、私にはなおも一つ大切なことを落としていたように思えた。
この法政大学沖縄文化研究所の以前の所長であり沖縄学の権威にして「おもろ研究」の第一人者であった外間守善先生。師の妹さんもこの船に乗っていて亡くなられたことが守善先生の「私の沖縄戦記」第一章に詳しく書かれている。これを取り上げなくては沖研が主催した講座である事の意味が見えてこない。

対馬丸事件を直接語ったものではないが、外間守善先生は「沖縄の歴史と文化」でこう語っていた、

沖縄戦については、すでに多くが語られているが、死者の数は未だに更新され、一人一人が、一つの岩かげ、草かげで、それぞれの戦場をもったその全貌は語り尽くされるということがない。そしてその体験は、近代国家の軍隊は人間とその生活を守るものではなかったことを、沖縄の人々の心に強く焼きつけた。この原体験が戦後の沖縄の人々の行動を方向づけることになる。 

以前も一回この沖研総合講座を聴講して失望した経緯もあり、今回も、ああこんなもんかというのが実直な感想だった。むしろ政治社会の分野の講義は避けて、沖縄独特の民俗、風習を題材にした授業を受講したほうが興味持って望めるのかもしれない。
この授業の煮え切らないモヤモヤな気持ちは、このあと立ち寄った、御徒町の立ち飲み屋で、生ビールとともに吹き飛ぶのである。
次回の投稿をお楽しみに。