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「野火」を読む

美しい女をみた。眼福とはまさにこのことを言う。
盆前のある日の昼過ぎ、私と妻は、最寄りの大きなJR駅まで、帰郷する娘を迎えに行った。里帰り客と観光客で駅全体が混んでいたけれど無事に会えた私と娘は、早速、駅ビルの一角にあるスタンディングバーへ行って、おいしい地ビールを飲むことにした。
駅コンコース寄りに位置する地域の老舗土産屋と、奥にあるレストラン街を分けるように、ちょうど真ん中あたりにそのバーがある。
ビールを手にして空いたテーブルに行き飲み始めるとまもなく、一人の若い女性がバーに来た。インナーがうっすらと透けた白のブラウス、ターコイズブルーの膝丈レーススカートをまとった、30歳前あたりと思われるその女性はお顔立ちもすっとして美しい。そんな彼女はベビーカーを押していて、その中ではすっかり寝入っている赤ん坊が。
白ワインを手にしたその女性は、私たちの横が少し空いていたのか近くに来た。大きめのワイングラスだったのだが、彼女はぐいっぐいと、まあ3口くらいで飲み終え、そうしてグラスを返すと、お盆で混み入った雑踏の中に、すっと紛れてこんでしまった。この間およそ3分。
美しい。表情を一切変えず、スマホも見ず、ベビーカーを横に、グイッと飲んで、そうしてさっと雑踏に紛れ込んでいく。
まさに人混みの中の天女!運転する妻の横で「天女降臨!」とこっそりつぶやく私。

閑話休題。100分de名著、8月は大岡昇平「野火」、早速読んでみた。また塚本晋也監督の同名映画もDVDで見た。

意外なことにこの「野火」は、映画より小説の方が生々しい。
小説の中では、主人公田村が遭遇するいくつかの場面において、情景や行動の描写が大岡の独特な文体によって余りに巧緻に描かれている。いや、描かれているのではなく、描かれすぎている。一方で映画の中では、当然ながら場面は映像として直接こちら側に向かって表現されてくるのだが、映像としてグロテスクな光景を写しているというだけで、田村の視線を通してみた場面ではない。小説の中では田村の目に入った物の特徴を捉えることに終始している。彼の視線から脳に入って、独特の言葉に代えられた独特の文節がこれでもかと続く。言葉の持つ「読む側に想像させる力」というものだ。なかでも廃村の教会の前でみた同胞たちの屍体を表現する「17 物体」の章は、映画の同じシーンと比較してみれば顕著だ。屍体の特徴だけを捉えて描いているその様相は、読んでいる私を震撼させてしまう。そうして諸処に織り込まれた主人公田村の形而上学的な自問も重要な役割を持っている。塚本監督は宗教的なものは排除したと言っているので、やむを得ないが、孤独な内面の葛藤がないことで、小説の主旨とズレがあるような気もする。もっと言えば映画では田村の声でナレーションを入れれば良かったのかもしれない。
それはさておき、私は思う。いったいこの「野火」という小説の不気味さはどこからくるのだろうかと。小説の上とはいえ、米軍に支配された島の、森に逃げ込んだ敗兵たちが、究極の飢餓から非人間的なことを森の中で「しでかしてしまう」話が不気味なのか、「生きてはいるがほぼ死んでいる」自分と同胞たちの狂気が不気味なのか。確かにその通りで、不気味さは死となり合わせになった「人間の意志」(この小説上で言う左手)がいかに実体として機能していないのかというところあたりが一つの眼目点であるような気がしている。そこからすべての狂気や惨劇が生まれているのだ。そして小説の諸処に出てくる野火は、何かをシンボライズさせている事は自明としても、それはいったい何なのだろうか。
今の私には皆目わからないのだ。
その不気味さを知りたくなって、私は再読を始めた。