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おのれの内なる「喫煙者憎悪」を省みながら

「あいつ(ら)のことはいくら叩いてもいいだろう」といったノリで放たれる「暴言」は、それが「時代の正義感覚」に依拠していることが多いだけに、かなり厄介だ。「直観的な道徳感情」や「積もり積もった被害者意識」というのはただちに「裁きの主体」になりたがる。それが集団レベルで加熱した先にはきっと「ヘイトスピーチ」のようなものが生まれる。
特定個人もしくは特定集団に強い敵意を向け、声高に断罪することには、強い「快楽」が伴う。これを私は「正義の陶酔」と呼びたい。そこに自省や罪悪感が生じにくいのは、その特定個人もしくは特定集団が「迷惑」で「不正」だと信じ込んでいるからだ。
こっちは「正義」で向こうは「悪」だという分断的認知処理に身を預けることはきわめて容易なことだ。これだけ少ない知的負荷で大きな快楽が得られるのだから、「人々」が「他者の断罪」に夢中になるのも分かる。「あいつらは他人に迷惑かけてばかりなんだからたしょう暴力的な言葉をぶつけても構わないだろう」という発想を一度も抱いたことのない人などあるだろうか。そんな聖人のような人物を私の貧弱な脳は想像することができない。
いわゆる近現代を生きている人間のなかにも「部族感情」は激しく脈打っている。ここでいう部族感情とは、「あいつら」と「俺たち」をきっちり分け隔てることで自分の「所属集団」を強固に確認したがる一連の感情のことだ。国家的部族感情はもちろん、階層的部族感情、道徳的部族感情、性的部族感情といくらでも名前を付けることが出来る。
私は自分のうちに「暴走気味の部族感情」を発見するたび、何とかそれを鎮めようと努める。「俺たちはいままで大変な被害を受けてきた、だからいまこそ奴らに報復するときだ」といった敵対感情は、一度膨張すると止め処がない。
たとえば私にとって「喫煙者という集団」はねんねんますます「我慢」しがたい存在になっている。近隣の部屋からそこはかとなくタバコ臭が流れてくるとほとんど生理反射的に「殺意」を感じてしまう。他人の吐いたタバコの煙というのは喫煙者にとっても耐え難いものらしいから、それも当然かも知れない。他者を不愉快にさせないと得られない快楽というものを、私の「沸騰中の道徳感情」はいっさい許容できない。ほうっておくと、「自分たちの害悪に無自覚なあいつ(ら)に天罰を加えねばならぬ」と、だんだんヒートアップしてしまう。こんなとき「いやしかし、彼彼女らにもいろんなストレスがあるんだ、みんな大変なんだ」「こっちも知らない間に他者の気分をひどく害しているかもしれない、お互い様だ」といったふうに内省し、気を静める。
たしかに見様によっては巨大利権のカタマリである「タバコ産業」によって依存症にさせられ税金を支払わされている彼彼女らこそ「被害者」なのだ。けれどもさしあたり私を不愉快にさせるのは彼彼女らの吐き出す汚い煙であり、だから私の憎悪感情は彼彼女らにちょくせつ向けられてしまうのである。この理不尽な分断統治的状況をいったいどうしたらいいのだろう。
少しでも油断すると私は「正義」の立場から「喫煙者」を激しく糾弾してしまう。私は気質上激しやすく、そうなると罵りや憎悪の言葉を「敵」と思う全ての人間にぶつけたくなってしまう。その実、「敵」は多すぎるのでそんなこと出来る筈もない。憎悪の水位は日々上がる一方なのだ。
「嫌煙家」のなかには、「喫煙者」集団を親の仇のように嫌っている人が少なくない。「喫煙者からは一方的に害を被っているのだから多少の差別や迫害は仕方ないだろう」といった、そんな報復的態度が根強くある。「ヤニカス」というあの身も蓋もない侮蔑表現にはそんな「憎悪」が込められている。
そんな行き場のない「憎悪」を、私はきょくりょく、人間学的考察の素材にしていきたいとは思っている。単純に「敵」を作り続けることにそろそろ我慢できなくなってきたのだ。

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