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「短編小説」港が見える丘公園#青ブラ文芸部

主人の好きだった歌を思い出して書きました。
よろしかったら、ご視聴しながらお読みください。


「港が見える丘公園」



「コロッケ弁当ください」
「はーい」
あの頃、君は坂の下にある小さな弁当屋さんに勤めていた。いつも明るい笑顔の君に惹かれて僕はいつしか毎日のように通うようになっていた。
その頃、私立大学の法学部に通っていた僕は親の仕送りが少なくて、いつもピーピーしていたから注文するのは決まって一番安い海苔が敷き詰められた「日替わり弁当」か大きなコロッケが二つのった「コロッケ弁当」だった。午後の最後の講義が終わる夕方には「日替わり弁当」は、売り切れになった。だから僕は毎日のように「コロッケ弁当」を買って夕飯にしていた。
黄昏れが空と海の境界線を茜色に染める、そんな時刻でも君の笑顔は朝焼けのように輝いて僕の目に映った。
その日も、買ったコロッケ弁当が入ったビニール袋をぶら下げてアパートへ帰る途中だった。

「ちょっと!ちょっと待ってくださーい!」
背後から聞き慣れた声が僕を呼び止めた。
振り返った僕の目に映ったのは、ハァハァと息をきらす弁当屋の彼女と差し出された白いビニール袋だった。
「よかったら、これ食べてください」
「え?」
ふいを突かれて、驚いている僕の手にビニール袋が握らされた。
「気にしないで、今日余った分なの。いつもコロッケばかりじゃ栄養が偏っちゃうでしょ」
「……」
言葉が出ない僕に
「残り物は気持ち悪い人?」
オドオドした黒い瞳が、上目遣いに僕を覗き込んだ。
「いや、あの、あんまり嬉しくて」
「良かったぁ~」
彼女は大げさに、いつもの屈託のない笑顔を僕に向けた。
「あ、私ってば、急いで来たから」
彼女は頭に手をやると被っていた店の三角巾を照れくさそうに外した。セミロングの髪が風になびいて、彼女の肩にはらりと落ちた。
その時、僕は初めて「この人に恋をしている」自分に気付いた。
「ねぇ、私は由美子、貴方のお名前は?」
「あ、秀一です。戸上 秀一」
「秀一君か〜、いかにも秀才みたいだね」
「秀才じゃないですよ」
「だって学生さんでしょ?」
「それは、まぁ、そうですが」
大学生がみんな秀才とは限らない。そう言おうとしてきらきらした由美子の瞳に気づいて口をつぐんだ。
「私はバカだからさ、憧れるんだよね、大学生に」
そうなんだ。大学生だから良くしてくれたんだ。
膨らみかけた期待が萎みかけようとした時、
「ねぇ、今日は私、もう上りなの。ちょっとだけデートしない?」
由美子が言った。
「え、でも僕、お金が…」
由美子は社会人だが自分は学生とは言え男だ。当時はデートで男が金を出すのは当たり前の時代だった。これで嫌われる。せっかく「学生」と言うだけで好意らしきものを持ってくれたのに。
僕は恋心に気付いた日に失恋を経験するんだと思った。
ところが由美子は
「うふふ、いいから、付いて来て!」
満面の笑みをたたえると空いている僕の手を取って、ぐいぐいと坂道を上り始めた。
黄昏れが僕達二人の背中を後押しするように紅く照らしていた。

「此処!」
由美子が連れて来たのは小高い丘の公園だった。
「此処から見える景色が一番好きっ」
そう言うと大きな目を閉じて深く息を吸った。
「秀一君もやってみて」
僕は彼女に言われるままに目を閉じた。
「ねぇ、遠い外国へ旅する船が見えるでしょ」

それから僕達はベンチに腰を下ろして、色々な事を話した。由美子の両親は早くに亡くなって中学卒業と同時に働き始めた事、僕が弁護士を目指して勉強している事、それから由美子は僕の弁当は、いつもご飯を大盛りにしていてくれた事や僕よりも二つ年上の事……話していると時間は、あっと言う間に過ぎた。
夕闇が夜の闇に変わり始める頃、僕達はどちらからともなく口づけを交わした。口づけと呼ぶには、あまりに幼いぎこちないキスだった。
帰り道で
「ねぇ、いい香りね。薔薇の香りと潮の香がマリアージュしてる」
そう言って由美子は、またはしゃいだ。初秋の風が薔薇園の香りを運んで来ているのは分かったが、潮の香は僕には分からなかった。


僕が彼女のアパートへ転がり込んだのは、大学を卒業して一度目の司法試験に落ちた時だった。普通のサラリーマンの父の給料では、もう仕送りが出来ないと言われたからだ。両親には僕の下にまだ大学を卒業させなければならない兄妹が二人居た。
由美子は、また笑って
「秀ちゃんの夢は私の夢だから」
嬉しそうに受け入れてくれた。
でも僕は知っていた。由美子の夢は、ユーミンの歌に出てくる山手のドルフィンのようなカフェレストランを開く事だって。
あの公園で初めてキスをした日、そう呟いただじゃないか。だから弁当屋に通いながら料理の勉強もしているって。
由美子はオムライスを作る時もハンバーグを焼く時もその鼻歌を口ずさんでいた。

『あなたを思い出す、この店に来る度、晴れた午後には遠く三浦岬が見える』

僕は由美子に甘えっぱなしのまま、それから司法試験に二回落ちた。彼女は、それでも笑って
「秀ちゃんは勉強だけしてて、私が働くから」
と言い続けた。

そして今、由美子が一番好きなこの公園に来ている。幸せになんてしてあげられない。僕は両親が呼ぶ故郷へ帰る決心をしているのだから。

『ソーダ水の中を貨物船が通る』

由美子は、また目を瞑りながら遠い外国へ旅する船を見送っている。何から切り出せばいい。

なぁ、由美子

「ごめんね」と「ありがとう」の言葉しか浮かんで来ない。

『小さな恋も泡のように消えていった』

なぁ、由美子
その歌だけは他の人には歌わないでくれ。君を幸せに出来なかった僕が憐れ過ぎる。
黄昏れが迫ってきた。ちぎれた雲が一つになる事はない。
「今までありがとう」
精一杯の優しさをこめて僕は言った。
「何故?イヤ、イヤ、いやーーー!」 
そうだよな、由美子は何も悪くない。悪いのは全部僕の方だ。
「いや、いや、いや……」
彼女の号泣が嗚咽に変わるまで、僕は此処からの景色を目に焼きつけようと黄昏れを見つめ続けた。
お願いだ、由美子。
僕の傲慢を許してくれ。
そして僕の好きな君の微笑みをもう一度くれないか。
その願いを振り切って夜が迫る公園に君を置き去りにして、僕は一人逃げ出していた。


あれから四十年の歳月が経った。僕は弁護士を諦めて両親の暮らす故郷で、行政書士としてなんとか成功を収めた。
今日は久しぶりに横浜に用事で立ち寄っていた。
あの公園に行ってみようか。
ふとした思いつきで足をのばした。懐かしさが手伝ったのかもしれない。
港を見下ろせる公園は、あの頃と違って綺麗に整理されて近代的に生まれ変わっていたが、此処から臨む景色だけは変わらなかった。
僕は、あの時と同じように目を閉じた。それから古びてしまったベンチに腰を下ろしたかったが、其処には先客が座っていた。品のいい初老の女性が微笑みながら腰掛けて居た。近付くと小さな声で、あの歌を口ずさんでいるのが聞こえてきた。

『あなたを思い出す、この店に来る度…』

えっ、まさか……

その時
「お母さん、寒くなったからもう帰りましょう」
小さな男の子の手を引いたその女性の娘らしき人が、声を掛けた。
「もう少し、もう少しだけ居させて、黄昏れが海を染めるのを見たいの」
「お母さんは本当に此処からの景色が好きね」
「ええ、一番好きよ」

僕は何も言わないで、黄昏れで染まっていく海を見つめた。








山根あきらさんの素敵な企画にまた参加させて頂きました。よろしくお願いします。



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