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「狂気ごっこ」芥川龍之介「河童」を読んで



まさか、この歳になって芥川龍之介を読み返すとは思わなかった。
私の記憶の中の彼の小説は、いつも毒々しくて、白か黒かを問うような人生の教訓を描いたようで、「もうお腹いっぱいですから勘弁してください」と言いたくなる物だった。
こう書くと私が芥川龍之介を嫌いなようだが、そうではない、むしろ大好きな部類に入る文豪の一人だ。でも、だからと言って、小中学校の時に読んだ芥川を今更読むつもりなど毛頭なかった。
いや、例え読んだとしても、私の人生に彼の筆は何の影響も及ぼさないだろう…
と高を括っていたのだ。

だが、今回「河童祭り」なるイベントに出会って「河童」を語るにあたり、やっぱり読み返すべきだろうと思い立ったのが、芥川龍之介の「河童」だった。


ここからはネタバレを含みます


或る精神病院に第二十三号と名付けられた三十を過ぎたのに青年のような風貌の患者が入院していた。

それだけで「ああ、読まなくちゃ」と引き込むのは、やはり芥川龍之介の筆の成せる技だろう。

第二十三号は淡々と雄弁に語り始める。
若き日に山登りをしていた彼は深い霧に包まれて、進路を失ってしまう。仕方なく食事を取っていた彼は、自分をじっと見つめているモノに気付く。それが後に親友となる河童のバッグだった。
初めて見た「河童」を第二十三号は捕まえたくなった。河童を追いかけ、山を走り、数々の負傷を負った彼は気を失い倒れてしまう。
気づいた時に彼を取り囲んでいたのは、大勢の河童だった。
その河童達の手によって担架に乗せられ、彼は病院へ運ばれた。人間の病院ではない。河童の医師チャックが居る河童の病院だ。

傷が癒えた彼は、河童の町の「特別保護住民」として家を与えられ、暮らすことになった。

そこからは第二十三号の河童の町での不思議な生活の話になるのだが、芥川龍之介は、人間の愚かさを河童に反映させて描いているように私には思える。

親友となった河童の漁師 バッグの妻の出産に付き合った彼は、河童のお産を初めて間近に目にする。
印象的なのは、今まさに生まれようとしている我が子(河童)にバッグが尋ねるところだ。
バッグは妻の生殖器に口を当て、腹の中の赤子に

「お前は本当にこの世界に生まれて来たいか?正直に答えろ」

と聞くのだ。
すると赤子は遠慮がちに小さな声をで、

「僕は生まれたくはありません。第一僕のお父さんの遺伝は精神病だけでもたいへんです。その上、僕は河童的存在を悪いと信じていますから」

すると産婆達の手によって太いガラスの管のような物がバッグの妻の生殖器に入れられ、薬のような液体を注入すると、妻のお腹はペチャンコになった。

バッグは、てれたように頭をかいたが、そこに、我が子を失った悲しみや殺人の罪を犯した後悔などは、微塵も存在しない…
と私は感じた。

河童の社会は人間社会と似てはいるが、不合理だったり悪を正義とするような変わった価値観、道徳から成り立っている。
河童の家族制度は、憎み合い殺し合うのが理想でそれを平穏無事で幸せだと思っているらしい。
芥川龍之介は「河童」を通して、人間社会への痛烈な批判を描いているのではないか?と感じずにはいられない。

特に詩人や作家、絵描き、音楽家などが集まる芸術家達のパーティーの場などは、芥川の得意分野で、その変人(変河童)ぶりが普通であり普通でないのだ。

ああ、何を言っているのか、言いたいのか、分からなくなってきた。
人間社会の常識が常識ではないと芥川は言いたかったのだろうか?
ならば、この狂った患者 第二十三号が正常であり、自分をまともだと信じて人間社会を生きている我々が狂気、または変わっているのだろうか。

ふと、もしかしたら芥川は自分への戒めのために、この「河童」を描いたのではないか?と思った。
詩人のトックはピストル自殺を図る。
そこには傍に愛人(愛河童)も居て、幼子さえも居たのだから。

この人間世界に戻ってきた第二十三号は、最後に詩を読み上げる。それが古い電話帳だという事に彼は気付いているのか、いないのか。

たまに彼のお見舞いに訪れる漁師のバッグは、第二十三号の頭の中では、未だに元気な存在で河童の世界から人間世界へと行き来しているのだった…



河童社会で「蛙」と言われるのが
最大限の侮辱らしい



persiさんの「河童祭り」に参戦しています。

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狂うか、何かを得られるかは、あなた次第。


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