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主語 "I" では守りきれない

1年近く前の話。

気のおけない同年代の旧友と話していて、終盤に差し掛かっているはずの生理の話になった。

彼女は都内に住んでおり、子どもはいないけれどパートナーとは仲良くやっている。私の周囲では子どもがいない場合、仲の良い夫婦が多いようだ。

これまでDINKSなのに贅沢をしずぎず、充分働いてきたので経済的にもゆとりがあり、例え今後仕事を辞めても十分に生活していける暮らしぶりである。

かたや私は波乱万丈と言っていい20代〜40代を経て、今はシングルマザーで、成長したとはいえ子ども二人を抱え、先行きはやや不透明ともいえる。

一度無職になった経緯を思えば、今の年収を稼いでいるのは自分自身としては褒め称えたいところだが、それはここ数年のことだ。コロナの影響もあり業界の雲行きも怪しく、漠然とした経済的不安を抱えていないと言ったら嘘になる。

そんな風に背景の異なる同年齢の女性同士。会えば淀みなく会話が続く。

政治、社会、コロナの話題、働き方の話もしつつ、必ず美容と健康の話もでる。アラフィフ女性は静々と訪れる加齢に伴う身体の変化への対応に余念がない。

私は未だに生理痛が重い方なので、正直この面倒な毎月のイベントが苦痛で仕方ない。そして今の所、更年期障害と言われるものがどんなものかよく分からない。(もしかすると、取りたてて更年期障害がない体質なのかもしれない)

"もうさっさと生理なんて終わって欲しいよーー。。”と私がボヤいた。

すると彼女は

"それをいうと傷つく人もいるから、気をつけた方がいいよ?"と形の整った眉をひそめ、少し低い声で言った。

"事情があって産みたくても産めなかった人もいて、みんながみんな生理が終わって欲しいと思っているわけじゃないからさ"と彼女は続けた。

そうか。彼女自身がポジティブに産まない選択をしていると思っていたけれど、産めない状況だったのかもしれない。私はそのナイーブな話題について仔細な事情は聞いたことがなく、知らなかった。

彼女を少し傷つけてしまったかもしれないと感じ、

私は、”ああ、ごめん、そうだよね。今度から気をつけるね。あくまでも主語は「私」だから。ほら、昔から生理痛ひどかったでしょ?”

と言った。

"ああ、そうだったね。救急車で運ばれるくらいひどかった、って言ってたよね。"

と彼女は少し同情を含んだ笑顔で言葉を返し、その話は終わりになった。

その後、なんとなくその会話についてモヤモヤしていたのだが、ずっとそのモヤモヤの原因はなんだったのだろう?と分からずにいた。

ふと今になって思うのは、いちいち "私は" と主語をつけなければいけない、あるいはつけた方がいい状況が増えているということだった。

育児本を少し読んでも

 "主語を私、アイ( I )にした メッセージで伝えましょう"

と度々書いてあったし、私自身も、子どもに対して意識して使ってきた。

"母親としての私の意見はこうだけど、あなた自身の意見は自由なのよ。あなたはどう思う?自分で考えてみてね"と。

情報、選択肢、環境を整えた上で、子ども自身の考えを尊重し、自発的な行動を促すのが、今推奨される子育てである。

昨今、これまで指導的立場にいる人(親や教師)が、被指導下にいる人(子どもや学生)に常識や意見を押し付けてきた弊害で、自分で物事を考えられない、判断できない人が増えてきたとも言われている。

その上下の関係性をある部分では解消し、個々人の能力を引き出すためにフラットな関係性を重んじる文化が徐々に拡張してきた気がする。

それに準じて" I "メッセージを使う人が増えたと思う。

" 関係性は平等ですし、あなたを尊重しているからこそ言いますが、今からお伝えするのはあくまでも自分の意見なので、参考にしてくれたら嬉しいです。”

 と前置きを述べる代わりに” I "を使う。

”私は"こう思います。”私の"意見です。と言えば、" これは一般的な意見ではなく、一個人のものです。決してあなたに押し付けているわけではありません" という優しさと相手への尊重のサインにもなり、また、相手からの反論や責任の所存に対して、自分の防衛線にもなるのだ。

対面して伝える子どもや学生、部下に対していう時と、不特定多数の人に向けて発言するときで、" I ” が含むその優しさと防衛線=盾との割合は大きく変わるだろう。

一見この変化は素晴らしい進化とも思えるが、一方で、SNSや多様なメディアで個人が発信することに対して過剰にネガティブに反応し、見えないところから石を投げる人に対しての盾なるんだな、とも思うと少し残念な気持ちもあった。

本来、その人が発した言葉や思想と、自分の言葉は当然のごとく別なものだし、個々の正義は自分の心の中にあればいい。

受け取り側がそれに従う必要も、強制されていることも一切ないのに、なぜいちいち自分の意見を述べる人が" I "をつけないければいけないのだろうか。。と。

分かり合えてるはずと思った友人同士でも、日々受け取る情報は全く違えば、常識も変わっていくだろう。冒頭の話のように、久しぶりに会えば、目の前で話していてすら些細な行き違いがある。

私たち日本人もある意味、アメリカのように多様性、多言語を前提としたコミュニケーション文化に近い感覚になったのでは、と思ったのだった。

そして 主語 " I "の防衛線をどんなに丁寧に張っていても、塀がない以上、遠くから石を投げ続ける人がいる。

石がぶつかったら、心は痛かった。

私のような超一般人でも1、2度石を投げられたことがあるから驚きである。

メンタルが屈強な人は、"石を投げるなら俺に投げろ" と言えるかもしれない。また、" 何かあれば訴訟するから、石を投げるなら覚悟してね"と言える強い人はまだいい。

けれど、石を投げる人は相手が強いかどうかで選んで投げるわけではない。単なるストレス発散の場合もあるし、ヒマな同じ人が繰り返しいろんな人に投石している場合もある。

そこに大した意味はない場合も多いだろう。石を投げたことすら当人は忘れているかもしれない。石を投げられる場所にいないから、その先に痛みを感じる人がいると実感できないのだ。

声をあげて社会や他人を変えるのには時間がかかるし、自分自身が後天的に強くなるのも殆どの場合難しいだろう。

実際訴訟だって多くのお金がいる。だからこそ私たち、ことさら影響力のある方々は、自衛のために防衛線をより強固に張らなくてはならなくなるのだろうな。。と思う。

それでも、好きな人たちが傷つくよりはよほどいい。

強固な擁壁の中の、心理的安全性が担保された場所で、私は私の好きな人の発信を聴きに行く。

かつて私たち有志メンバーでファンクラブを作った事もある楠木建先生は、月会費500円でDMMの中にオンラインサロンを作っている。

私も参加しているが、この中はすこぶる心地よい、と先生は書かれていた。ワンコインで擁壁をを築けるなら、お互いのメリットは大きいと思う。

発信する方だって、悪意のある、もしくは要らぬ正義を翳すごく一部の人に忖度しながら発信するより、はるかに伸びやかに、気持ちよく意見を伝えてくれると思うから。

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