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算命学余話 #R90「宿命が及ぼす力」/バックナンバー

 第二次大戦におけるユダヤ人大量虐殺を指揮したとするアイヒマンを裁く裁判を傍聴したハンナ・アーレントは、アイヒマンは多くのユダヤ人が期待したような邪悪な魂を持った悪魔的人間なのではなく、どこにでもいるようなごく平凡な役人にすぎず、ただ上からの命令に従っただけで罪の意識さえなかったことを看破しました。そしてその悪の根源が人間の「思考停止」にあるとし、自分が何をやっているのか、正しいことなのかそうでないのかを考えることさえしないで、ただ機械のように事務処理をこなしていく習慣が、人間から思考力を奪い、その結果として大虐殺につながるシステムをベルトコンベア式に作り上げて行くのだと警告しました。そしてそれを「悪の陳腐さ」と名付けたのです。
 しかし、当時のユダヤ人社会は、同じユダヤ人であり戦時中に自由を奪われた経験を持つアーレントが、アイヒマンをあたかも弁護するような発言をしたことで、アーレントを厳しく非難しました。アイヒマンは結局有罪判決を受けて処刑されるのですが、ユダヤ人たちにとって、アイヒマンは正義の鉄槌が下るに相応しい悪逆非道の怪物であった方が都合が良かったのです。あれだけ同胞を苦しめた大悪人が、自分たちと大差ないほど凡庸で、もしかしたらそこそこ善人なのかもしれないという残酷な真実に耐えられなかった。取るに足らないくだらぬ人物に、あれほどまでに屈したことが耐えられなかった。誰も太刀打ちできないほどの大物であって欲しかった。
 アーレントはそんなユダヤ人の願望をもまた「陳腐」と見えたのか、同胞からの厳しい批判に晒されながら生涯自説を曲げませんでした。そして半世紀を経て、そんなアーレントのブレない声に真実を認めて、我々はその著書や発言に耳を傾けているというわけです。

 卑近な例では、最近児童虐待の事件で父親が逮捕され、間もなく母親も逮捕されました。母親は夫の暴力が悪だと判っていましたが、怖くてとめられなかったとか、言っても無駄だと思ったとか、そういった供述をして、暴行に加わったのではなくその傍観姿勢を咎められて逮捕されたのでした。この母親の傍観は、まさにアイヒマンと同種の思考停止の賜物です。
 私の宿命鑑定の依頼人の中には、自分の子供を占って欲しいという人がたまにいます。未成年の鑑定については、その相談内容次第で受けたり受けなかったりしているのですが、受けないケースはいつも、その親がまさに「思考停止」に陥っていると看破した場合です。つまり子供の成育の問題点を、すべて宿命のせいにしたい、或いは誰かのせいにしたい、要するに自分のせいだとは露ほどにも考えたこともないし、そもそも考えたくない。自分は考えることなく、正解だけが欲しい。そういう親の依頼は、厳しい叱責を飛ばして断っています。

 こういう親は未熟です。年齢相応に成熟していないから、自分で考えて答えを見つけられないし、そもそもそういう発想がない。そんな未熟な人間が親になってしまった。これがそもそもの間違いなのです。間違った親から生まれ、間違った親に育てられているから、当然子供は間違って育ちます。
 これは子供のせいではありません。ましてや宿命のせいでは毛頭ない。子供はまだ自分の人生をいくらも生きていないし、自力で生きていけないから親の世話になっているのです。幼いほどそうです。幼児は自分が摂取すべきものを自力では選べません。幼児に養分を与えているのは親なのです。影響力が最も大きいのは、子供の一番近くに暮らして世話をする親以外にはありえません。
 そんな非力な幼児のスカートをめくるように、宿命を露わにせよと迫る親に、子育てする資格があるでしょうか。そのすけべ心の卑しさを軽蔑して、私は鑑定に応じない姿勢を取り続けています。(思考停止していない親御さんの悩みには、真摯に応じております。)

 もうひとつ最近の話題から。国会答弁で安倍総理が、数年前の民主党政権を「悪夢のような」と形容して物議を醸しました。世間では「自民党にとっては悪夢のような時代だったかもしれないが、まるで日本全体にとって悪夢だったかのような表現」に聞こえ、故なき誹謗だと非難する声が上がりました。
 確かに表現自体がそもそも幼稚だったとは思いますが、算命学を学習する皆さんはどう感じましたか。短命だった民主党政権時代の悪夢といえば、誰もが思い浮かべるのが2011年の東日本大震災です。勿論、あの地震は自然災害であり、原発事故は人災の要素があったとしても、よもや民主党のせいで起きたとは誰も思わないでしょう。それ以前の長期政権であった自民党のせいだとも思わないでしょう。そういう認識で間違いありません。

 しかしながら、算命学をやっている人の目には、別の映り方があると思います。今回の余話は、上述のアイヒマンの思考停止、ユダヤ人が求めたアイヒマン極悪人説、児童虐待を呼び込む親の未熟と責任感の欠如、国家や国民に対する責任の所在について、算命学的な視点から見える風景を考えてみます。

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