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手話ができることは、正義なのか。正義だけでわたしたちは救われるのか。

手話の苦手な人がわたしに向かって話すとき、わたしは相手の手話が間違っていてもその場で正すことはあんまりない。実際は、事前にもらっていた文字資料を思い出したり相手の口の形を読み取ったり話の文脈からその内容を推測することで頭がいっぱいで、正している余裕なんてほとんどないってのが正直なところ。

日本に住んでいる英語話者だって、日本人間違えた英語の単語と文法を常に正してくる人はないでしょう。だいたい伝わればオッケーみたいなかんじで。

「手話を学んでいるから間違っていたら直してほしい!」と言われることもあるんだけど、そういうときはあとからこっそり教えることにしている。じゃないと、話題は次々と移り変わっていってしまう。

でも、その場に手話のできる人がいると、その苦手な人が間違った手話表現をするたびにわたしの方に視線を向けて、ニヤッとしたり苦笑にたりしながらコソッと正しい表現をしている。なんて場面が昔から結構ある。

手話のできる人からしたら、わたしがその話題を正確に理解できるようになんていう配慮からやってくれているのかもしれない。確かに、本当に文脈が掴めないときにはその正した表現を頼りに話の文脈を掴もうとすることもあるのは事実。

じゃあ。もしも。もし、ある程度正常な聴力のあるあなたが、アラビア圏に送り込まれたとして。そして、必死に知っている単語を使って話そうとしているとして。日本語もアラビア語も喋れるような人が、自分にも聞き取れないような小さな声でブツブツとアラビア語を話していたらどんな気持ちになるだろうか。

「間違ったことを言ってしまったんだろうな」なんてやらかし感が襲ってきて、さらには「アラビア語を喋れないことをバカにされているんじゃないか」なんて思い始めたらもう泣いちゃうんじゃないだろうか。ただでさえしどろもどろで話しているのに、もう毎日繰り返している「ありがとう」とかでもミスっちゃうんだろうな、なんてことを思う。

はじめて親元を離れて暮らすようになったとき、専門分野について議論を交わすとき、職場での研修や会議に参加するとき……心が大きく揺れ動いたタイミングやより高度な専門用語を理解する場で、わたしは幸にして手話という聞こえにくくても視覚的に認識できる言語に支えられている。

自分からそういう環境を選んできたこともあって、専門知識を身につけたり業務についての連絡事項を知ったりすることについては、他の聴覚障害者と比べてもかなり恵まれた環境にいるんだろうな、と思っている。

でも一歩プライベートの環境に踏み出すと、手話ができない人の方が多い。わたしを小さい頃から育ててきてくれた家族も、昔からの友人も、好きな人も、実は手話があまり……というかほとんどできない。それでも、わたしは彼らがとても好きだしお互いの存在をおもしろがれていることに日々本当に感謝している。

大抵お互いにその人柄をおもしろがれている相手は、わたしの「聴き取れなくてわかっていない」という様子にとても敏感だし、わたしも相手の話を理解したいから分からないときには遠慮なく「なになに?」と聞き返す。その相手は口の形をはっきりと見せてくれるし、その相手の口の形の読み取りにも慣れている。

だから、手話ができないからという理由で「あなたとは仲良くなれない!」とコミュニケーションのシャッターをガラガラと締めたことはない。もうそれははっきりないと言える。まぁ、手話もしてくれたらコミュニケーションへの疲労度が軽減するからもっとその人との時間を楽しめるだろうな……と思うことはあるけれど。

学校でも職場でもそれは同じで、手話ができないのなら文字情報をちょっと多めにくれたらいいのになとか文字通訳アプリを使って話の内容を伝えてくれたら助かるな、くらいは願わくばなんて期待しちゃうことはあっても「絶対に手話を使って話しかけてほしい!手話以外の言語で話しかけてくるような相手とは仕事しません‼︎」みたいなことは思っていない。

むしろ、伝えようとしてくれてわたしも伝えようと思っている相手なら職場の友人でも手話が苦手な人がそれなりにいる。

だけれど、手話ができる人の方が多い場にわたしがいるとなんでか冒頭のような

手話が苦手な人が手話を間違うたびに、わたしの方にニヤッとしたり苦笑したりしながら視線を送ってきて正しい手話をコソッとする人

が一定数存在してしまう。そしてそれにわたしが頼れば頼るほど、コソッとの手話が普通の大きさになり、「〇〇さん。今のは△△」なんて単語の訂正が逐一入るなんてことも。

聴覚障害のあるわたしにとって、手話という言語は話の理解をよりストレスフリーかつ正確に理解できる手段であるというのは、紛れもない正義。周りに手話ができる人たちがいるおかげで、わたしの専門知識はより深くなって業務にも専念できている。

じゃあ、その正義があればあとはなんの配慮もなしに情報を獲得することができるのか……というとそうでもない。アクリル板に付箋がついている状態で小さく手を動かされてしまったときや、わたしがメモを取っている間も話が進んでしまって後から「なんで見てなかったの!」なんて言われてしまったときの方がよっぽど情報を得られない。

アクリル板に付箋が大量に貼り付けられていたら手話は見えないし、相手が手話をしても口を大きく動かしても、わたしは見ていなかったら情報を得られない。なぜなら、耳が聞こえにくいから。

あと、正している人も言い直す人も単語しか言ってくれないからどの話のどの部分の言い間違いを正したのか分からないし、コソッとやってくれる手話を見ている間に別の話題が始まっていて何も分からなかった……なんてこともまぁ、それなりにある。

それから、みんなから見て手話が苦手な人には「もう一度言ってもらってもいいですか?」って訊ね返しても不自然がられないけれど、それなりに手話ができる人たちに訊ね返すとなると(でもまぁ、話始めたのに気付かずにメモを取り続けていたわたしが悪かったんだろうな)なんて思って訊ね返せない。

結果的に、手話が苦手な人にばかり訊ね返しているように見えてしまうのだけれども。でもね、違うんだよ……なんてことを考えていたら昔のわたしが良いこと言っていた。

聞き返せるのは、信頼している証拠。そんな関係を築いていくために、わたしにできることってなんなのだろう。

よく分からない言語に囲まれて、それでも手話をしてくれる人に出会ったらそっと「今聞き返したの、信頼している証拠なんです。あなたの話をちゃんと知りたいっていう証拠なんです」とコソッとメモを渡してみよう。

正義じゃないなにかが、わたしたちをすくってくれるかもしれない。

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