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「魂のマエストロ~近衞秀麿」展①~近衛秀麿とは誰か~


行ってきました秀麿展!



民音音楽博物館(本館)で開催中の特別企画展「魂のマエストロ~近衞秀麿」展に行ってきました。
今年2023年は秀麿の没後50年(生誕125周年)にあたり、また民音創立60周年、音楽博物館リニューアルオープンを記念して開催されたようです。

今回は自称"近衛秀麿の強火オタク"が企画展について、若干の解説を交えながら感想を殴り書きしていこうと思います。
※この記事は展示を一回観ただけの勢いとLOVEで書かれているため、加筆修正することを前提にしています(撮影は禁止、目録等の配布もありませんでした)。

信濃町にある民音音楽博物館 めっちゃ綺麗

2018年に開催された秀麿の生誕120周年イベントは逃したので、今回こうやって節目を迎えられることがとても嬉しい!
ちなみに没後50年のため、仙台フィルや日本センチュリー交響楽団で秀麿作曲・編曲の作品が取り上げられたり、PPTではオール秀麿プログラムが組まれたりと色々あるようです。

ちなみに今回は介護要員として乱会さんにお付き合いいただきました。
本当にありがとうございました。


「魂のマエストロ~近衞秀麿」展の構成


今回の秀麿展は音楽史的歩みというよりも、主に彼の生涯に焦点をあて、その人間像に迫るような内容となっています。
構成としては、彼の人生をⅠ~Ⅳ期(程度)に分けて説明パネルと展示物が設置されている、といった感じです。
分け方は大体以下の通り(本当にうろ覚えすぎるので後で修正します)。

  • Ⅰ期 — 生い立ちと「音楽青年」近衛秀麿

  • Ⅱ期 — 日本のオーケストラの黎明期と近衛秀麿

  • Ⅲ期 — 近衛秀麿の作曲活動と海外での活躍

  • Ⅳ期 — 戦後の活動

そして主に説明パネルに使用されていた文献は以下の4点です。

  • 大野芳『近衛秀麿—日本のオーケストラをつくった男』(講談社、2006年)

  • 藤田由之編『音楽家 近衞秀麿の遺産』(音楽之友社、2014年)

  • 菅野冬樹『戦火のマエストロ 近衛秀麿』(NHK出版、2015年)

  • 菅野冬樹『近衛秀麿 亡命のオーケストラの真実』(東京堂出版、2017年)

この記事内でも、上記4点を引用・参考に使用します。


「日本のオーケストラの父」近衛秀麿について


近衛秀麿『わが音楽三十年』(改造社、1950年)より

展示の感想に移る前に、そもそも近衛秀麿って何をした人?という方向けに、簡単に説明をさせていただきます。
知ってるよ!という方は読み飛ばしてください。

近衛秀麿
近衛公爵家第28代当主、近衛篤麿の二男。1898年11月18日生まれ。
指揮者・作曲家・編曲家であり、日本のオーケストラのパイオニア的存在。子爵。1932年から1937年までの間、貴族院議員も務めた。
※近衛家とは、藤原北家の嫡流であり関白忠通の長男基実を祖とする公家の五摂家のひとつ。鎌足の裔で、平安末期に一家をなし、摂家の筆頭として代々摂政・関白に進んだ。明治時代には華族令の制定に伴い、公爵に叙されている。
父は貴族院議長及び学習院院長を務めた近衛篤麿、異母兄には3回にわたり日本の内閣総理大臣を務めた近衛文麿をもつ。また、実姉に大山巌の次男大山柏に嫁いだ武子、実弟に詩人・ホルン奏者・雅楽研究家であった近衛直麿と、貴族院議員を務め戦後は春日大社宮司・談山神社宮司を歴任した水谷川忠麿(春日大社宮司であった男爵水谷川忠起の養子となり家督を相続)がいる。
学習院在学中の1913年頃からヴァイオリンを習い始め、1916年には本格的に作曲家になることを志し、牛山允の紹介により山田耕筰に師事。1923年に東京帝国大学文学部を卒業目前で中退し、ベルリンに遊学。カール・ムックの指揮をみて指揮者になることを決意。シュテルン音楽院で指揮法をフェリクス・ロベルト・メンデルスゾーンに、作曲法をアレクサンダー・フォン・フィーリッツに学ぶ。1924年には25歳の若さでベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮。これは日本人で初めてのことであった。
1924年6月に帰国。帰国後、9月26日に東京・丸の内の報知講堂で「交響楽大演奏会」を開く(この時、一部ではあるがマーラーの交響曲が日本で初めて演奏された)。1925年に山田耕筰が松竹合名会社の協力を得て開催された「日露交勸交響管弦楽演奏会」にて、山田とともに指揮を担当。日本交響楽協会(日響)に近衛シンフォニー・オーケストラと共に合併し音楽活動を開始(日響は山田耕筰が1924年に設立)。しかし、1926年には山田耕筰との確執により、日響を離脱(山田耕筰とは1931年に和解)。行動を共にした楽員たちと新たに新交響楽団(現在のNHK交響楽団)を結成し、指揮者に就任。新響の活動の傍ら、欧米の名門オーケストラを指揮し、秀麿が「生涯の師」と仰いだエーリヒ・クライバーや、秀麿の指揮法や「近衛版」に大きな影響を及ぼしたヴィルヘルム・フルトヴェングラー、そしてカール・ムック、レオポルド・ストコフスキーなどの巨匠たちと交流した。1935年には新交響楽団と訣別。戦火の色が濃くなる中で、各国のオーケストラにて客演指揮者として出演した。
第二次世界大戦中は日本に帰らず、ナチス政権下であったドイツに留まり、演奏活動の傍ら人道活動を行う。秀麿自身の回想によると「一九四〇年以後スイス、オランダ等の越境の危険を犯しながら出国に成功したユダヤ人の数は十家族を超えた」という。また、戦時中の1944年にコンセール・コノエを結成し、フランスやベルギーを中心に活動。このオーケストラは表向き親独を謳ったものであったが、迫害されたユダヤ人の音楽家やその家族を国外に逃がすための装置として機能していたとする菅野冬樹氏の研究がある。
1945年5月に米軍の捕虜となり、アイスレーベン収容所に収容される。その後、収容所を転々として同年12月に帰国。戦後は日本に留まり、オーケストラの育成に尽力。国内のオーケストラを多く指揮した。
1973年6月2日逝去。享年74歳。


上記が秀麿の簡単な来歴です(情報に不備があればご指摘ください)。

近衛秀麿の音楽的な側面については、音楽評論家の片山杜秀氏が『音楽放浪記日本之巻』(筑摩書房、2018年)内において「近衛は、第二次世界大戦までの民族の相違による演奏の多様性を、日本代表としてになっていた音楽家のひとりとなろう」と評価しています(p.81)。
そして独特の「日本訛り」がある近衛の指揮は「今日的感覚でいえば、シゲティの音程と同じで、妙な癖のついた下手な演奏といわれかねない」(p.83)とも指摘しており、どうやら賛否両論あるようです。

ただ、その存在においては、三枝まり氏が『音楽家 近衞秀麿の遺産』(上述)内で「わが国の西洋音楽の黎明期に、指揮者、作曲家、編曲家として、日本の交響楽の普及・発展の基礎を確立した音楽家と位置づけることができる」(p.44)と述べている通り、日本の近代音楽史における重要な位置を占める人物である、という一定的な評価が下されていることが分かります。

しかし、近年になりやっと再評価の動きが出てきたものの、秀麿の存在は近代日本の音楽史上において長らく語られておらず、彼は「忘れられたマエストロ」となっていたのです。

日本の偉大なマエストロ、朝比奈隆は『わが回想』の中で、近衛秀麿(と山田耕筰)について、以下のように語っています。

いまさら山田耕筰、近衛秀麿両先生、先輩のことは、事新しく言わなくても、すでに歴史的存在ですが、私たちは直接その後へ来ましたのでね、歩いていくと、いつも山田、近衛という人が前におられるわけで、いうなれば英雄なんですな。
(中略)
だから、山田耕筰と近衛秀麿とは全く違うキャラクターですけども、日本の音楽の歴史の中で絶対に忘れられないと同時に、基礎をきちっとつくった。いまでも近衛さんを慕っている楽員は、まだかなり生き残ってますね。

朝比奈隆・矢野暢『朝比奈隆 わが回想』(徳間書店、2002年)p.57・72

つまり、同時代の人間からすると、近衛秀麿は「神様」である山田耕筰と並ぶ音楽的英雄だったわけです。
しかし現在では、その知名度には圧倒的な差が生まれてしまっています。

なぜ、近衛秀麿の評価はここまでなされていなかったのか。
これについては、後に詳しく述べていきたいと思います。(つまり「後に」があるってことですか…!?できるように頑張りたい)。


「フォゲット・ミー・ノット」と呼ばれる手形コレクション


「魂のマエストロ~近衞秀麿」展の入口にある布ポスター。興奮する。

まず展示室に入ると、入口付近に設置された「手形」が目に入ります。

これは「フォゲット・ミー・ノット」と呼ばれる秀麿の手形コレクションについての展示です。
秀麿は知り合った音楽家たちから手形を貰っており、そのコレクションの一部が今回の企画展では紹介されています。

これ、なかなか見る機会のないものなので……!

「フォゲット・ミー・ノット」を分析した菅野冬樹氏によると、この手形帳は3冊に分けて保管されており、1冊目は1932年から1937年まで、2冊目は1937年から1938年まで、3冊目は1938年から1940年までに収集されたものがまとめられているとのこと。
中には名前も日付も残されていない手形もあるそうですが、その総数は350枚にのぼるそうです。

菅野氏が秀麿の二男、近衛秀健氏から聞いた話によると、秀麿が「この人の手形を取っておこう」と思った相手は、「自身が尊敬していた相手か、もしくは特別な親交を結んだ相手」であったとのこと。

この手形の中には日本に亡命したユダヤ系ドイツ人指揮者のレオニード・クロイツァーのものもあり、秀麿の活動や人物像に迫れるような超重要かつめちゃくちゃ面白い史料なのですが、説明をしていたらキリがないので、気になる方は菅野氏の『近衛秀麿 亡命のオーケストラの真実』(上述)を読んでみてください。
この本は戦時中の近衛秀麿の足跡をとにかく追いまくる内容となっており、とても面白いです。
併せて『戦火のマエストロ 近衛秀麿』(上述)もどうぞ。

他にもトスカニーニに手形を頼んだ時のエピソードが残っています。
こんな顛末を迎えたこともあるようです。

もう一つは大音楽家たちの手型で、これもフルトヴェングラー、クライバーからシャリアピン、フォイアマンなど、たくさん集められている。トスカニーニに頼んだら、なぜそんなものがいるのかといわれたので、「私は帰国したら手袋屋をやるつもりだから、あなたにもいい手袋を」と返事したところ、シャレを解さない彼は、「手袋屋はイタリアにいいのがいくらもある」といって応じず、ついに彼の手型だけは得られなかったという。いかにもトスカニーニの面目が躍如としていておもしろい。

宮沢縦一編著『明治は生きている』(音楽之友社、1965年)p.249


もちろん秀麿は海外の音楽家だけではなく、日本人の音楽関係者からも手形をもらっており、今回の企画展では音楽評論家の太田黒元雄、純正調オルガンを発明した田中正平の手形が展示されています。

ただ、あれば真っ先にピックアップされるであろう山田耕筰の手形がどの文献・展示にも出てこないとなると、どうやら秀麿は自身の音楽の師であった耕筰の手形はとってないんでしょうね…笑。


今回の企画展では秀麿自身の手形も展示されていますが、こちらは近衛音楽研究所のギャラリーでもみることができますので、ぜひ(→近衛秀麿の手形)。

(この手形、ちょっと変わった方法で展示されていたのですが、「抗菌加工が施されています」と書かれていたので触ってええもんかと思い、推しの手と自分の手を重ねてオタク笑いをするなどしました。触っちゃダメだったら本当に平謝りします。)


次回から、展示についてⅠ期から順に解説を交えて、感想を書いていこうと思います(うろ覚えもいいとこ)!

ご興味があれば、読んでいただけると嬉しいです。