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女性のほんらいの主体性――新しい方のフェミニズムへ

カール・マルクスとジークムント・フロイトという古典は、この世界の成り立ちを知るためにできれば読みたい本だと思います。

しかし、私は、フロイトは食わず嫌いのまま来てしまいました。もちろん、勉強のために断片的に読むことはありましたし、フロイトを引用する本は多く読んできました。そのせいなのか、どうしてもフロイトへのアレルギーのようなものがあって、なかなか読めずにいました。

先日、ふと図書館に立ち寄ったときに、フロイトを借りてみようと珍しく思い立ち、ほんの一部ではありますがざっと読んでみて、なるほど、第二派フェミニズムから批判された理由がよくわかりました。

たぶん、若い頃の私が読んだら、フロイトへの怒りで満ちたでしょうが、もう中年期に入ったいまとなっては、経験的にも、フロイトの言っていることはちょっと違うなぁと確信できた部分がありました。

マルクスにせよ、フロイトにせよ、資本主義が隆盛していく時代にあった人たちが書いたものですし、存在被拘束性を免れることはないのでしょう。もちろん読み手にも、存在被拘束性はあったのでしょう。いまは資本主義も後期ですし、別のパラダイムが必要なように思います。

ちなみに、いまの私には、第二波フェミニズムが批判してきたようなフロイト像を読みとることはなぜかできず、それよりもフロイトは「関係」を追求しているのではないかと読めてしまいました(まあ、全作品を読んでいませんので、違うかもしれません)。

そう考えたときに、やはり、まず女性こそが、既存のパラダイムへの過剰適応から自由になる必要があるように思うのです。もちろん、これが、簡単なことではないことはわかっていますが。

ジェシカ・ベンジャミンは次のように述べます。

他者承認を拒絶する男の態度と対をなすのは、主体性欠如の身分を受け入れてしまう女自身の態度、自分が男から承認されないのに、自ら進んで男を承認してしまう女の態度である(古典的な母親像――自己放棄の模範――は、こうした欠如を美化した姿である)。

ジェシカ・ベンジャミン 1988年『愛の拘束』110頁

ここで書かれているのは、女性を承認しない男性に対して、女性がどのような態度であることが、その硬直状態を切り抜ける可能性があるのかということでもあります。

ベンジャミンは、母親たちが主体性をもつことの必要性を述べます。母親が主体性をもつことが、子どもの成長において欠かせないと言うのです。さらに、いわゆるキャリア・ウーマンでは、女性の解放をもたらさないとまで言っています。

男の子と女の子の双方にとって、幸運な破壊と存続を経験する際に、最大ではないにしろ、大きな障害として立ちはだかるのは、明らかに、こうした母親の主体性欠如である。自分自身の権利で人間の資格があると感じる母親だけが、子どもによって人間として理解されるだろうし、このような母親のみが、子どもの独立心の成長に伴って、必然的に生じる攻撃性と不安を、きちんと理解し、またそれに制限をつけることができる。主体性を完全に達成した母親のみが、破壊を生き延び、十全な差異化を許容することができるのである。この事実は驚くほど理解されていない。・・・・・・紋切り型の「キャリア・ウーマン」とは、「男と同様に」個人的感情をはさまない超然とした状態になれる女性のことを言うのだが、しかし、他者の欲求を否定することに基いたこのような個人性が、女の解放をもたらすことは、まずあり得ない。

ジェシカ・ベンジャミン 1988年『愛の拘束』 115頁

ベンジャミンのこうした主張が、日本社会で受け入れられるにはもう少し時間がかかるかもしれません。

子育てのあり方や働き方について、国の施策を待っているようではダメでしょうし、一方では、国家システムに期待するだけではなく、既存の社会資源やネットワークをいかに活用するのかという観点をもつ必要があるでしょう。ポストモダンを経たいま、もはやお仕着せのものだけでは通用しないのです。

確かに、問題は山積みです。

それでも私は、いま、ご自身の母親との関係で深く悩まれて、そのことを我がこととして取り組まれている勇敢な人たちから、この、新しいパラダイムが拡がっていくような気がしてなりません。

それが楽しみで仕方ないのです。

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