「忖度」と「分かる」の違いについて――理解されてしまうことの傷つき
歴史学者の阿部謹也さんは、日本人が生きてきた枠組みとして、また日本人を支配してきたものとして「世間」を捉え、『世間』という著書を書かれたことは有名です。
ジャーナリストの山本七平さんは、誰でもないのに誰よりも強く日本人の行動を規定するものとして「空気」を捉え、『空気の研究』という著書を書かれたことも、多くの方が知るところかと思います。
最近では、新聞記事やネットニュースでも、私たちを生き辛くさせる「同調圧力」というワードをよく目にします。
人と会って話せば、誰もが「空気」や「世間」や「同調圧力」を不快に思ってるという悩みを聞きます。
にもかかわらず。
なぜ、私たちはいまだに「空気」や「世間」や「同調圧力」に心を絡めとられているのでしょう??
理由はいくつもあると思いますが、ここでは「対象を理解すること」から考えてみたいと思います。
昔、社会学者の奥村隆さんが『他者といる技法』という本の中で、「理解することの暴力」について書かれました。
私たちは、人や物事を「ありのまま」に理解することはほとんどできなくて、「手持ちの知識」で「理解」しようとするのです。
言いかえれば、「自分が理解できるように理解する」のです。
だから結局それは、人や物事を理解したのではなく、自己満足のようなものなのです。
「あ、わかっちゃった!」という人が、真に相手のことを分かっていることはないのではないでしょうか。
「分かる」というのは、「分」と書きます。自分と相手や物事とが「分けられている」ものであるということにもつながりそうです。
してみれば、「忖度」するというのは、自分が理解できるように相手をわかそうとすることで、結局のところ、自己満足といえるかもしれません。だって、忖度って、ひとりでやるものですから。
自己満足でやったことがうまくいけば、相手から恩寵を受けられる。そのように、日本の「世間」は回ってきたのかもしれません。
西洋からSoiety(社会)という言葉が入ってきたとき、日本にはそれに適した人びとの集まりがありませんでした。
西洋では、個がまずあって、個が集まってSocietyやCommunityを形成してきたわけです。
日本は世間がまずあって、世間と個はわかちがたく結びついていた時代がありました。いいえ、夏目漱石の自我との出会いの驚きを言うまでもなく、個という意識もなかったのでしょう。
だから、いまもなお日本人は、個と地続きに相手や物事を考える癖があるようです。
個人の心に輪郭がないと、他者の心にも土足で踏み入ることができてしまいます。そう、困ったことに、できてしまうのです。
ケアの臨床にいると、クライアントさんの心に土足で踏み入らないこと、勝手にわかってしまわないことが、どれだけ大事なことかを日々感じます。
「理解なく、記憶なく、欲望なく」と、精神分析家のW.ビオンは言いましたが、こうした姿勢で相手や物事に臨むことではじめて、相手や物事を「分かる」ことができるように思うのです。
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