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最も非合理的なものの中にある合理性について

私は非合理なものを、けっこう信頼している。

それは、合理性を否定するものではなく、非合理なものの中にしばしば極めて合理的なものがあるからだ。

これは私のいち経験論ばかりではなく、アカデミズムの中でも言われてきた見解のひとつだ。

例えば、社会学者・見田宗介は『社会学入門』の中で、次のように言う。


「合理と非合理を自在に往還する精神=〈メタ合理性〉の水準こそが、近代合理主義の後の時代の、精神の骨格を形成するものと考えることができる」(41頁)

と、見田さんは書いたうえで、NHK放送文化研究所の「日本人の意識調査」のデータを分析しながら、「再魔術化」について触れている。

それは、「信じているもの」について聞いた質問項目への回答の、1973年時点と2013年時点での変化から記述される。

2013年では「あの世、来世(21%)」「奇跡(26%)」「お守りやお札などの力(26%)」「易や占い(11%)」を信じると答えた割合が、73年に比べて10~15%以上増加しているのである。


見田さんは、「この意識の変化が、〈メタ合理性〉であるわけではないが」と論じたうえで、「手さぐりの試行錯誤の触手たち」だと述べている。

見田さんが論じる〈メタ合理性〉について、私はまったく同感するし、それが次の時代の精神の骨格であるという直観についても、とても共感している。

しかし、意識調査に現れているそれらは、〈メタ合理性〉への触手だとはやはり考えにくいと思っている。

意識調査の結果はむしろ、《混沌とする社会現状への思考停止状態》であって、精神分析の用語でいえば《解離》であって、未成熟な人間の「どうにかなるさ」という地道さのなさ、に思うからである。

1980年代から始まった自己啓発セミナーは今日ではいわゆる「スピ系」といわれるようなジャンルとなって存続し、バリエーションも増えてきている。

おそらく、見田さんがこれらのカルチャーに接触する頻度の少なさからくる、記述の限界であるように思う。

また、未来への種まきとしての、こうしたカルチャーに属する人たちへのメッセージなのかもしれない。真実は、聞いてみないとわからないが。

「混沌としすぎていてよくわからない、考えれば考えるほど不安になるから、考えるのをやめよう。どうにかなる」と、見たくないものを切り離してしまうのは「解離」でもあり、「どうにかなる(誰かがやってくれる)」というのは幼稚な手段であり、中年期の変容時にしばしば起こる「退行」でもある。

変化を恐れて、ことなかれ主義を生きようとする心性だ。

なぜこのような心性になるのだろう?

それは、近代合理化によって可能となった未来予測と、未来への計画が立てられるようになったがために生じる《不安》が、そうしたのである。

《不安》を感じられるのは、人間の意識の進化でもある。

しかし、《不安》の取り扱い方がわかっていないのが現代社会だ。

結局、将来のためにと保険をかけるしかなく、それは《いま》を生きることを忘れさせる。

これからの私たちに求められるのは、こうした《不安》を抱えるだけの心の器を創ることである。

それができて初めて、〈メタ合理性〉という精神骨格が創られると考える。

《不安》を抱えられるだけの心の器ができて初めて、他者を交歓できる、他者に共感できるのだ。

そこに、躁転はない。解離はない。防衛はない。そうしてやっと、平和につながるように思う。

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