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『当事者としての治療者』という本の呼びかけ

カウンセラーは話を聞く専門家であるはずなのに、カウンセラーが苦手という方はけっこういるのではないかと思います。

私も、そうでした。

カウンセラーは「客観的であって完全なる観察者である」という態度が、苦手でした。

あたかも、高見から対象としてのみ見られているような感覚を得ると、話すどころか口をつぐみたくなることもありました。

そうそう、それで私は、社会学に親近感をもったのでした。社会学はむしろ、「完全な観察者であることはできない」ということを主張しました。

それと、社会学は社会の周縁部にいる人たちへの豊かなまなざしをもっていました。マジョリティが差別し侮蔑するような人たちを、歴史的・社会的に救い出すような力強さがありました。

そうして、社会学を通して自分をどんどん相対化していたら、自分がわからなくなるような感覚をもったこともありましたし、自分の中にあるマイノリティな部分にも気づいたのです。そこから、私は精神分析と出会いました。

自分の中にあるマイノリティ。自分の中にある当事者性。

多くの方が言及しているように、すべての人が何かの当事者であり、いまはそうではないと思う人も、老いれば必ず当事者になるわけです。

G.H.ミードの『精神・自我・社会』という書作がありますが、昔の私には「精神」と「社会」とのつながりがいまいちよくわからなかったのです。いまはもしかしたらもう少し読解できるかもしれないと思います。

私がカウンセリングで大切にしていることのひとつは、ご来談者さまを安易に理解しないことです。言いかえると、ラベリングやカテゴライズしないということです。人は変わってゆくのです。

多くの人は、誰かに理解してほしいと思っているのに、勝手に理解されてしまうのは嫌なのだと思います。

いま、精神分析家・富樫公一の『当事者としての治療者』という本を読み進めているのですが、とても面白くて、いずれそのことを書こうと思っています。


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