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精神と社会との関係――人間であることについて(ライト・ミルズ『社会学的想像力』より)

「陽気なロボット」という言葉は、資本主義が隆盛し行き着く先にあるものとしての「人間の人間による疎外」を批判的に検討しようとした人たちが、1960年代あたりのアカデミック・シーンで用いた言葉です。

ミルズは、次のように述べます。

フロイトの「イド」、マルクスの「自由」、ジョージ・ミードの「I」、カレン・ホーナイの「自発性」の概念は、疎外された人間の勝利(陽気なロボット)に抵抗して提起されている点に、重大な意味をもっている。かれらは結局、人間がそのようによそよそしい――自然に対し、社会に対し、自己自身に対して疎外される――被創造物にはならない、究極的にはならないのだという確信を可能にするような基軸を、人間としての人間のうちに見出そうとしているのである。

C.W.ミルズ 1959年『社会学的想像力』

昔、読んだときには、実はこの箇所にそれほど注目しなかったのですが、改めてこの箇所に力点を置いてみると、ミルズが提唱していた社会学的想像力は、現代社会において「人間が人間であること」と問うていくための想像力ということができるように思います。

ミルズによれば、社会学的想像力は「一つの見地から別の見地に移動する能力、またそのなかで全体社会とその構成要素についての正しい見方を構成する能力にかかっている」とされます。

ミルズは、私たち人間が、社会や歴史の力によって、ときに思いもかけずに形成されているとはいえ、かれ(あなた)が生きているという事実は、この社会と歴史のプロセスに対して、たとえどんな些細であれ貢献しているのだ、ということを明らかにしようとしました。

そのためにこそ、個人の生活史と社会の歴史とを行き来しながら結びつけてどちらをも理解することを提案したのでしょう。

それは、ミルズ自身が激動する世界情勢の中で軍隊生活を送った経験も関係しているのかもしれません。ミルズは、自らを異端と称しながらも当時の主流派を批判的に検討し、のちの社会学者に影響を与え続けました。

ミルズがこの本を書いてから、70年近くが経つのですが、ミルズはすでに、人びとの中に生まれ始めた「不安」について取り上げています。

現代社会はエビデンスを求めますし、それは確かに、無視することはできないものです。

けれども、おそらく多くの人が、エビデンスだけで何かを決めても不安は解消しないし、腑に落ちなかったり、行き詰るような体験をしているのではないでしょうか。

それは、当たり前なのです、命なのですから。

昔から、「社会学的想像力」という概念に強く惹かれるものがありましたが、いま紐解いてみると、なるほど、その理由がわかったような気がします。

混迷する現代社会にあって、それでも、私たちが「人間であること」を失わずにいることの大切さ、その力、について教えてくれる一冊です。

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