くだもののにおいがする部屋

どこからか甘酸っぱい果物みたいな匂いがしてくるのは、決まって夕方の時刻だった。
夕暮れどきになると、この部屋は匂いがする。
まだ名前を知らない、外国のフルーツのような匂い。
抽斗にまぎれていた小さな壜の底に、僅かに残っていた香水みたいに懐かしく、部屋に流れ込んでくる。

匂いが漂うとき、部屋の窓はめらめらと燃えるように赤くなっていた。
それは外の夕焼けのせいで、部屋が暗いから窓のむこうの夕焼け空が、四角い額ぶちの絵のように切り取られてみえる。
わたしはこの景色を何度も目にしているから、何もかもよくおぼえているのだった。
この部屋で一緒に過ごした君が、言っていたことも。

──匂いってつかめないから、どこにでも行けるね。部屋もそうだし、人の身体とか意識にだって入ってきて、お構いなしだよ。鼻から吸い込んで肺や脳に送り込まれて、手や足の指いっぽんいっぽんまで行き渡ってゆく気がする。こうして口から吐いた息にだって含まれて、また部屋のなかに戻ってきて、循環するんだ。身体を流れる血液みたいに。そうやってえんえんループするのだから、本当にきりがないよね。

後ろのベッドに横になって、天井をみつめながら、君はそんなことを喋っていた。

──窓を開けたらいいじゃない。そうしたら匂いは外に出ていくよ。

──前にやってみたんだけど、あんまり効果はなかったんだよね。
それにいやな匂いじゃないから、別にこのままでいいと思っているの。

そう言うと君は目をつむって横を向いてしまい、窓を開けるどころか、ベッドから下りてもこなかった。

この部屋に来るまでのことをよくおぼえていない。
君と会った経緯についても、すごくおぼろげになってしまっている。
ふたりが出会った日のこと。

──たしか、外は雨が降っていて、会社帰りに通っていた暗い耳鼻科の待合室で、なかなか名前が呼ばれなくて、ふと顔を上げたら君がいたのか。

いや、いつかの夏に、駅で水筒を置き忘れてしまって、走って取りに戻ったら、ホームのベンチに君がいて、ちょうど手に持ったところだったのだっけ。

ううん、それよりもっと昔、まだ制服を着ていた頃、誰もいない視聴覚室で、白いカーテンのすそに隠れていたら、急に君が潜り込んできて、一緒に授業をサボったんだ。
そのあと人に見つかって、螺旋階段をかけあがって逃げてきたのだけど、息が切れて、目のまえの景色が白く飛ぶくらい苦しくなって、でもやけに楽しくって、ふたりして屋上に出て笑ったよね。

違うな。もっとずっと、ずうっと前から、わたしは君のことを知っているような気がする。
君と出会ったのは、いつかずっと昔だった。
いつかずっと昔──

──春の海の砂浜で、静まりかえった深夜の交差点で、旅先で入った田舎のレストランで、ポストに大事な手紙を投函した帰り道で、雨が降るまえに駆け込んだコインランドリーで、早朝のそば屋の湯気のふもとで、封切りされた映画のチケットに並ぶ列で、昼下がりにまどろむ猫のとなりで、土曜日のスーパーマーケットの駐車場で、忍び込んだ押し入れのなかの暗闇で、公園の噴水の水しぶきの向こう側で、貨物列車が通過する踏み切りの手前で、旧友を迎えにゆく桜並木の途中で、まだ誰の足跡もついていない山奥の雪道で、雨宿りしていた夕立のさなかで、陽炎がゆらめく夏日のアスファルトで、なかなか寝付けない真夜中の天井で、自転車を漕いだ川沿いのあぜ道で、合唱が聞こえる放課後の校舎で、青空を映す水溜まりの先で、干したての布団のやわらかな感触で、アナウンスが流れる劇場のロビーで、手のひらをかざした明け方の焚き火で、寝返りを打ったまくらの模様で、嵐が来る前日の草原で、いくつもの流星が落ちる夜空の真下で、雨上がりの澄んだ空気のグラウンドで、光が差し込む朝の台所で、よく晴れた秋の日に寝ころんだ芝生のうえで、窓のそとに広がる燃えるような夕焼けのなかでわたしは君を見つけたんだ。

わたしたちが出会ったのは、いつかずっと昔のことだった。
これはまぼろしではなくて、
わたしたちはいつも一緒だったよね。

窓をあけたら果物の匂いは流れて、代わりに外から新しい空気が入ってくる。
そんなの簡単なことだった。
それなのにわたしはできないでいた。
ずっと慣れた甘くて優しい空気を手放すのはこわかったから。
新しい空気なんて欲しくなかったから。
でも今夜、わたしは鍵を外して、窓をひらいてみることにした。
その先には冷んやりした空気と、どこまでも青い夜が続いていた。

さよならとつぶやいてみると、
部屋の空気はゆっくりと透明になり、
果物の匂いは消えて、
後ろで眠る君が、青い闇に溶けていった。

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