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「Tiktokの曲」はイデア好きには嫌悪である
2月よりTiktokでユニバーサルミュージック所属アーティストの楽曲が使用不可となったらしい。
楽曲が使用禁止になることは賛否を巻き起こしたが(勿論どんな行動にも賛否は付くだろうが)、個人的に注目したのはこの意見。
『これで「Tiktokの曲だ!」と言われるのが減るのは嬉しい』という意見。
『Tiktokの曲』と聞くと、どんなイメージを持つだろうか。
多分この意見を出した人は個別に制作された(制作者のいる)楽曲を、『Tiktokの曲』という一括りにされることや、Tiktokのサビだけを使う、楽曲の一部を使うことに憤慨を覚えているのだろう。
原因を探るというのは、ふと大事なのだろう。
論文でも原著を探せば、上記の曲には製作者を知り、カバーであればオリジナルの暗記が求められる。
証拠には客観的・科学的データが当たり前の時代だ。
ここでふと思うのが、私たちの多くは『イデア』が好きなのではないか。ということだ。
野菜でも、科学でも、その中心部、完璧なイデアがあれば、全てが理解できる。だからイデアなのではないか。
さて、人間のイデアはどうだろうか。
私は人間のイデアは想像力にあると思っている。想像力こそ人が人だとたらしめる部分であり、イデアであると。
そしてそのイデアに『逆美術館』が出るのだ。
想像を創造にする。想像力を更に膨らませ、人のイデアを膨張させる。
そんなことも私はまたしている、とこれを書きつつ思った。
皆さんは『Tiktokの曲』と呼ぶか、イデアを追い求めるか、どうだろうか。
ではまた。
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