【貧困】無駄遣いが美徳である現代社会における生活最低限費とは?

ゲームに関係ない話だが、どうしても提案したかったため。

自分らしさが求められる社会で自分らしさを演出する無駄遣いこそが生活保護にも求められるのか?

自分はどうでも良いことを思い出すので、かつてNHKで貧困高校生として出演して炎上したうららさんのことを思い出していた。

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彼女はエアコンの電気代を払うのにも苦労し、生きていくのに大変だ、という感じで出たが、生活に不必要な沢山のキャラクターグッズ等を持っていたということで批判された。

だが、「いい学校、いい会社、いい人生」「高度経済成長」といった社会や政治が生き方を保障せず、新自由主義の自己責任と自由主義の中での人生形成では、個性を主張する無駄な物こそ必需品であり、そうであるがそれには際限がないので、社会の分断は進んでいくということだ。


このことを、他の人の生き方が分からないので、自分の人生のフィーリングで語るしかないのだが。


まず自分は障害者の非正規雇用で、大学に通って得られる資格を得るには、色々面倒くさいという感じだ。大学等のちゃんとした教育でしか得られない資格をとらずに高収入を目指そうとすれば、プログラマーぐらいしかなさそうだ。そう思って基礎的なことは勉強したが、物理と大学数学が無いと面白そうな物は作れないと思ってしまった。

ま、簡単にいえばそんなに努力したくないのだ。

だから第2の趣味に人生の楽しみを持っていくのだが、人間の欲望は、必要限度を超えてしまう。普通の人と能力が高い点を趣味で作ることで、優越感を感じ、この競争社会・序列社会でつかの間の汚い優越感に浸れる。

しかし、安易にできる趣味のゲームでも、本当に差を作ろうと思ったら、プロゲーマーがそうであるように、それなりの身体スポーツプレーヤー並に苦しい努力をしなければならない。

それはきつい。そこで金さえ払えば手に入れられる安易なグッズ所有や優れたファンであることを証明する行為(うららさんで云えば、映画館で好きな作品の映画を何回も見る)など、スネ夫のような微妙な行為にはしってしまう。


そうした欲望を完全に無くそう!というのは、宗教が「欲をなくそう!」と言って儲ける感じのように、人の道とは違う道になってしまう危険もあるかもしれない。

さすがに100m走に順位を付けないのはやりすぎだが、「人が怠けず能力を研鑽する方法」と「競争性を弱めること」を両立できなければ、いけないと思う。

だが、これを提案する前に、「衣食住があってNetflixがあれば良いだろう」という劣化した考えを信奉しうららさんをボコボコにする人に、無駄遣いが生きがいとなる現代社会を説明するのは面倒くさい。

オチもゲームネタもなくてすみません!!!!

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