見出し画像

【DESIGNER INTERVIEW: TAAKK 森川拓野】常に変わるスタート地点を、いつだって超えていきたい。

デザイナーインタビューの第1回目はTAAKK(ターク)デザイナーの森川拓野さんです。2012年にブランドを立ち上げ、現在9年目。2013年には「Tokyo新人デザイナーファッション大賞プロ部門」(以下、ファッション大賞)に入賞。3年間6シーズンの支援を受けた後、「TOKYO FASHION AWARD」(以下、アワード)、「FASHION PRIZE OF TOKYO」(以下、プライズ)といった国内の名だたる賞を続けて受賞。さらに今年、世界中のデザイナーが憧れる「LVMH PRIZE 2021」(以下、LVMHプライズ)のセミファイナリストに選ばれるなど、話題に事欠かない存在となっています。ブランド立ち上げから現在までを、引っ越したばかりという東京・学芸大学にあるアトリエにて伺いました。

「実は自分でお洋服作ったはいいけれど、どこでどうやって発表したらいいかも分からなかったんですよ」


― お久しぶりです。そして、LVMHプライズのセミファイナリスト選出おめでとうございます! 息つく暇なく成果をあげていますが、今日はTAAKK(以下、ターク)立ち上げ当時から、今までのお話を聞けたらと思います。とても長いスパンですが、大変だったこと、嬉しかったこと、これで行けるなって思った瞬間など、聞かせてください。

ブランド立ち上げのことですか? いや〜、基本大変すぎて、もう二度とやりたくないです、正直(笑)

― 何が一番大変でしたか?

30歳でISSEY MIYAKE(以下、イッセイ)から独立して、お金もないでしょ? 貯蓄も100万円ぐらいしかなかった。会社は勢いで辞めてしまったので。とにかく自分のブランドがやりたかったから。いきなり自分のブランドだけで生きていけるとも思わないので、週何回かは企業デザイナーをやりながら、お金を稼がないと自分のブランドの服も作れないとは思っていました。でも、どこも決まらないんですよ。イッセイで働いていたと言ってもね。もちろん週3回で稼ごうってこと自体に無理があるって、今考えれば分かるんですけど。結局、土木作業の他に、薬を飲む治験のアルバイトとかやって。とにかくその間にサンプルを作ってました。会社を辞めたのが3月とか4月で、でも8月ぐらいにはサンプルが出来ていて、展示会とかやってましたね。はたから見たら、すごくちゃんとやっているように見えていたと思います。でも実際は毎日アルバイトして、ストレスで帯状疱疹にもなるし、ひどかったです。でもそんなに頑張ったにもかかわらず、結局200万ぐらいしか貯まらなかった。それでサンプル作って個展をやったら、すっからかんで。

でもその個展の前に、当時、神戸に「ドラフト!」っていうセレクトショップバイヤーと若手デザイナーのマッチングイベントがあって。実は自分でお洋服作ったはいいけれど、どこでどうやって発表したらいいかも分からなかったんです。だから「ドラフト!」の話を聞いたとき、あれ実は関西圏のブランドを応援するプロジェクトで、縁もゆかりもないのに、応募したんです。そうしたら、やっぱり経験があるから、当たり前に勝つんですよ。でもそれはすごいラッキーなことだったなって、今は思います。そうしたら縁もゆかりもない人たちが、みんな僕の服を「すごいいい」って言ってくれて。関西圏のビームスが契約してくれたんですよ。それが8月くらいかな。とりあえずビームスがついて、ホッとして。

― 勘が良いというか、導かれているというか。必死でありながら冷静な印象です。

「ドラフト!」からの帰り道、紹介されたショップに寄ったり。死に物狂いでしたよ。本当に大変だった。ビームス3店舗分のオーダーは量的には決して多くなかったけど。それで希望も出たから、自分で東京で個展をやったんですが、バイヤーさんが1人も来ない!!

― 個展の開き方とかは、何となく分かっていたのですか?

分からないです。だから手探りでバイヤーに電話して、自分で。そのたびに心が折れて。本当は合計10店舗ぐらいいくって内心勝手に思ってたんですよ。それで東京で個展をしたけれど、結果「ドラフト!」で決まった3店舗だけだったから、世の中が甘くないこと、その個展で知りました。それがファーストシーズンでしたね。

― デザインからトワルを組んだり、パターンを引くといったことはご自分でもやろうと思えばできると思うのですが、その後の工程、たとえば布の手配とか縫製工場とのネットワークはすでにあったのですか?

縫製の工場はまったく知らなかったです。だからすべてイチからですね。友達に縫ってもらったりとか。人づてに工場を紹介してもらったりとか。イッセイって大きい会社だったから、技術者は技術者の仕事で、僕は企画者だったから、生地屋さんとか加工屋さんとかしか知らなかったんです。新規に生地を織るとお金かかるから、すでにある生地を後加工で何とか変化させて。大変だったなって思います。死ぬかと思いました。支払いは待ってくれないじゃないですか。

― 全部イッセイの時の経験とか関係性のなかで、準備出来ていたのだと勘違いしていました。

でもビームスがついたから、今度は銀行にお金の話をしに行って。貸してもらえるように頑張りました。サンプルを作り終わった後だから、手元に本当に1円も無くて。銀行行くにも電車に乗るお金もなくて。これマジ? 30代で、こんな惨めな思いするなんてって、ずっと思い続けてた時期です。何とか銀行に行って、とにかくアピールをするわけです。「ファーストシーズンのコレクションでビームスがつきました。しかもイッセイで企画者をやっていました。そしてイッセイのパリコレに出てる服、俺作ったのはこれです」って、銀行にプレゼンして。そうしてお金を借りたわけです。

― 独立して一番大切なのは、お金の知識と思いますが、必要に迫られてマスターしたって感じですか?

イッセイの時は企画の、しかも限られた一部をやればよかったけど、独立したら当然そうはいかない。必要に応じて全部調べました。

―Tokyo新人デザイナーファッション大賞プロ部門(以下、ファッション大賞)のことも、自分で調べて知ったのですか?

ファーストシーズンを見てくれた人たちから、ファッション大賞のことを教えてもらいました。それが2シーズン目の2013年ですね。

画像1

― 実際サポートを受けてどうでしたか? ファッション大賞事務局側から言うと、森川さんは最初から手のかからない、しっかりしたビジョンのある人でした。

ファッション大賞は、ブランドの初期のサポートとしては一番いいと思う。本当に若くて何者でもない人たちにとっては、ありがたいと思います。展示会でコレクションを見てもらうことがメインの若手ブランドにとっては、会場費への金銭的サポートはすごいこと。自分はむしろ、それ以外求めてなかったって言ってもいいかもしれない。とはいえ、これまでの全部のカテゴリー(アワードとプライズ)が無かったら、今のタークは無かったと思います。

「結局最後に助けてくれるのは、人間関係だと思う。デザイナーなんて何も出来ないから」


― ブランド立ち上げ初期は、とにかく人に見てもらう必要があるから、展示会が命ですよね。森川さんは人間関係にも恵まれていますね。他の媒体でのインタビュー記事を読むと、「チーム」という言葉が出てきます。

結局最後に助けてくれるのは、人間関係だと思う。デザイナーなんて何も出来ないから。だって自分で縫うわけじゃないし、パターンを引くわけでもない。指示はもちろん自分でするけど、一人でできることの限界ってやっぱりある。今は妻もいるし、アシスタントもいるし、いろんな人が支えてくれている。はたから見たら「ターク」って森川のことだけど、僕からすると森川じゃない。それこそショーをやるってなったら演出の人がいるし。音楽作ってくれる人には、次のシーズン(22SS)に向けてコンセプトだけ伝えて、アトリエで流す音楽まで作ってもらったりしています。そういった大きな支えがあって、初めてお洋服になるけど、今そういうことが言える環境になって良かったなって思ってます。最初は僕しかいなかったし。全部一人でやってた。

― イッセイにいたときのことも少し伺いたいです。

イッセイには7年いました。イッセイの時はPLEATS PLEASE ISSEY MIYAKEを担当して、それからme ISSEY MIYAKEを経験してミッドタウンにある21_21 DESIGN SIGHTのイッセイさんの企画展のスタッフになったり。その後イッセイミヤケのメインコレクションの企画チームに入って数年した後、メンズの企画をやって。ほとんどの部署を渡り歩きました。

「もっと上を目指さなきゃなって。必死なだけですよ。這い上がりたくて、這い上がりたくて仕方ないし」


― 今まで「死ぬ思い」っていう言葉が何回か出てきましたけど、そう言いながらも展示会を成功させて、doublet(ダブレット)の井野将之さんとスペースをシェアしたりしながらフレンズデーを開催したり。工夫していましたよね。

苦しいながら若かったしね。30代前半で。

― でも必ず進んでいるという手応えはありましたよね? どんどん良くなっていくっていう。

今も昔もなんですけど、決して爆発的に売れる服は作ってないし、その分苦しいところはあります。デザイナーとして、ちゃんとお洋服を作って面白いものを提案しているけど、実際売上は期待どおりにはついてこない。だけど、見る人によっては凄く評価してくれていて、その人たちの支えで一歩一歩。それだけです、今まで。

― サポートを受けている期間で、もっとこういうサポートが欲しかったっていうのはありましたか?

僕、特にないですよ。バイヤーを紹介して欲しいみたいなこと? バイヤーを紹介して欲しいなんて、おこがましいですよ。そういうこと期待しちゃいけないし、そんなこと期待するんだったら自分でブランドをやっちゃいけない。大賞の時は展示会場費のサポートが全てだったし。それ以外は何も。

― 森川さんは、それぞれの段階で要求されたことを、自分らしく楽しくアレンジしながら表現しているように思います。

そうですね。アワード、プライズは本当にそうですね。だからもっと上を目指さなきゃなって。必死なだけですよ。這い上がりたくて、這い上がりたくて仕方ないし。

― アワードの受賞で渋谷ヒカリエのホールでショーをしましたよね? 観客は時間ギリギリまでなぜか廊下で待たされて、何かアクシデントがあったのかと思ったら、バーンと曲が始まって、廊下がランウェイになるという素敵なハプニング的演出のショーでした。あれは最高でしたね。驚きと感動がありました。あれは森川さんのアイデアですか?

アワードで与えられてるホールをそのまま使いたくなかったから、ちょっとひねって。ホールは使わず、ホワイエをフィッティングとヘアメイクルームにしてモデルは廊下を歩いた。ルールをちょっと違う角度から利用するっていう。それも含めてチーム力ですね。

― コロナ以降、自分の中で変化は?

コロナのことを言う前に、デザイナーズブランドであることはずっと捨てないでいたい。コロナだからこそ自分が何者なのか、人が自分に何を求めているかとか、そう考えると、結局安くて買いやすくて、自分じゃなくてもいいものを薄めて作ったら、それはブランドビジネスになってくるし。それで一時的に取引先が増えても、すぐに離れちゃう。これからますます、ほんとの強さしか必要ないなって。だから型数を広げるつもりも全然ないし。服を着てくれた人の1日が、幸せになれる服を作るべきだと思うし。それこそがデザイナーズブランドだと思うから。そのために一生懸命仕事しなければ、あっという間に捨てられるなって。嘘ついちゃいけない気がするんですよね。

― 確かにこれからは「真摯であること」がとても大切なキーワードだと思います。いろいろ分かってしまいますものね。今はスタッフは何人いるのですか?

そうですね、僕と奥さんとアシスタントはひたすら雑務をこなしてるけど、あとは全部外部スタッフですね。ショーになると今度は演出さんとか、音楽も、色々。パタンナーの1人は文化の同級生。グラフィックを一緒にやってるメンバーもいます。あと生産系のシステムは、僕の故郷、秋田出身の友達。他に営業もいるし。営業も外部だけどすごい信頼してる。プレスも外部。

― そういう人とはどうやって出会ったのですか?

自然に集まってきますね。

「時代が変わる時っていろんなチャンスが絶対に潜んでる」


― さて、LVMHプライズのセミファイナリストに選ばれました。ファイナリストにも、選ばれたいですね(このインタビューはファイナリストが発表された4月28日より以前)。LVMHプライズへの挑戦は今回が初めてですか?

みんな、ずっと応募してますよ、多分。僕もずーっと出してます。出してるとは公に言わなかったけど。チャンスがあることに対して貪欲になれなかったらチャンスはないじゃないですか。だから僕は出し続けてました。ファイナリストにはなりたいですけど、コロナのせいで、審査の場に直接お洋服持っていけないから悔しいですよ。本来だったらちゃんとお洋服持って、無名だろうと何だろうと見てもらえたんだけど。今回は2体分の商品だけをパリに送って、あとはデジタル資料を作って送りました。まとめながら、これで判断されたくないよなって思いながら。こういうタイミングだから文句は言えないけど、僕のお洋服、触ると絶対違うから。だから悔しいなっていうのはあります。まあそれは、落ちた時に悔しいって言おうと思って。やることはやったから。

― せっかくのチャンス、デジタルでこなさなければいけないというのは歯痒いですね。

デジタルもフィジカルも両方いいところがあるとは思いますけど。

― フィジカルといえば、先日、パリで発表した21FWコレクションを、東京・目白の明日館でプレス関係者のためにフィジカルで見せましたよね? デザイナー自らの解説付きで。ああいう特別感は、今後流行りそうな気がしました。

画像2

あれは良かった。時代が変わる時っていろんなチャンスが絶対に潜んでる。デジタルがーとか、フィジカルがーとか、みんな聞き覚えのある言葉しか喋らないから。だったら角度を変えた方が絶対いいし、じゃあそのための構造をどういうふうに料理するの?っていうのが一番大切だって思う。今起きてる現状っていうのはみんな一緒だし、だからいろんなトライをする。次は6月開催のパリコレ。タークは前回の21FWから、オンスケジュールのショー枠での発表になったんですよ。日本のブランドだと、その枠での参加はそんなに多くないから嬉しいです。

― これからも、何があっても丁寧に、もちろん世界を見据えて挑戦していくっていう気持ちですね。

世界を見据えるっていうか、世界で闘って勝たなきゃいけない。そこで闘ってるイメージをもう持ってるから。そこで勝たなきゃいけない。挑戦じゃない。どこまで行っても結局スタート地点に立ったんだなっていつも思うんです。スタート地点はいつも変わっていくけど、だったらそこで勝ちたいじゃないですか。

― はい! これからも、自分の夢を形にしていってください。

自分だけじゃない夢に変わってきてるから、それはすごいいいこと。それは素敵なことですね。

森川拓野 TAKUYA MORIKAWA
1982年、神奈川県生まれ、秋田育ち。 文化服装学院卒業後、株式会社イッセイミヤケに入社。 「ISSEY MIYAKE」「ISSEY MIYAKE MEN」でパリコレクションの企画デザイン担当などを経て独立。 2012年、森川デザイン事務所を設立し、自身のブランド「TAAKK(ターク)」を立ち上げる。「LVMH PRIZE 2021」のセミファイナリスト選出。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?