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【DESIGNER INTERVIEW: hatsutoki 村田裕樹】産地に入り、ファクトリーブランドを担う

東京生まれ東京育ちの若者がファッションの根本を支えるテキスタイルに興味を抱き、播州織(ばんしゅうおり)で名高い西脇産地に入り、そこで出会った人々との縁をつなげてデザイナーとして生きていく。今回ご紹介するハツトキ(hatsutoki)デザイナーの村田裕樹さんが選んだ道は、正解の無い、手探りの道でした。不完全な中でも自分とブランドの世界観を日々更新していく村田さんの今を伺いました。

「野球少年だったんで、洋服を自分でそんなに買ったことがないんですよ。その時「2万円の服を買うんだったら、生地に2万円をかけて自分で作ったらいいじゃないか!」って思ったんです。」

ー村田さんがファッションに興味を持ったのは、いつ頃からですか?

小学生から高校を卒業するまで、ずっと野球をやっていたんです。でも高校ぐらいで、野球のセンスは無いんだなと気付いたから、まずは大学に入ったわけです。そこでやっと立ち止まって考えられたんですよね。これから先、自分が得意そうな分野で、それを一生続けていこうというふうに。直感的に思ったんですよ。

じゃあ得意なことは何なのだろうって自分の記憶を遡っていったら、野球で褒められたことはないけれど、物づくりは褒められたなと思って。うちの親父も祖母も物づくりをする人だったから、欲しかったら作る、という考え方が当たり前のような家だったんです。祖母は昔、洋服の仕立屋で修行していたことがあって、自分の服を何でも作るんですよ。だから、もしかしたら自分も作ることが得意かもしれないって、初めて気がついたんです。

大学に入ると毎日私服で通学するわけですが、野球少年だったので、洋服を自分でそんなに買ったことがないんですよ。それに買うと高いじゃないですか。「これはもしかしたら自分で作った方がいいんじゃないか?」って思ったんですよね。「2万円の服を買うんだったら、生地に2万円をかけて自分で作ったらいいじゃないか!」って思ったんです。

ーその発想は大胆で面白い。お金をかけるなら布にかけたい!というわけですね。

結局、祖母の家に夏休みの間中、通いつめて、シャツとかジャケットの作り方を教わったんです。そこがファッションと服作りとの最初の出会いですね。

ーお祖母様に習う日々っていうのはどんな感じだったんですか?

結構スパルタでしたね。縫い目の美しさとか、ステッチの細かさとか、ボタン付けの綺麗さとか、そういう事にすごくうるさかったです。それは原体験となって、自分の中の根底に流れる思想として残っています。その時すごく楽しかったし、かつ、これなら続けていけるっていうことを意識していました。野球も才能が無いなりに頑張れば、ある程度まではできるようになる。じゃあ才能がありそうな分野で同じことを10年とか20年とか続ければ、すごく上手になるんじゃないかと思ったんです。それからどんどん服作りにのめり込んでいきました。

同時に、これを職業にするにはどうしたらいいんだろう?と思って、過去のデザイナー達が何をしてきたのかっていうのを、大学の図書館に籠って、芸術コーナーの本を端から端まで見ていました。19世紀の後半ぐらいから今までのアートとファッションとデザインの流れを全部見たわけです。

ーファッションを含む、あらゆるデザイン分野の歴史を頭に叩き込んだわけですね。

はい。どうしたらデザイナーになれるのか?職業にできるのか?っていうことの基本を、そこで学んだと思います。過去の人達がやってきたことを見て文脈を作っていって、じゃあその文脈の中で、自分が今現在どこに居るのかというのを認識したという感じですね。これまでの人たちも、ただ自分の好きな服を作るのではなくて、時代の流れの中で社会のために必要とされるものを、デザインで表現して来たんだなというのを学んだんです。

ー確かに、ファッションは時代の空気感というか、ムードから大いに影響を受けると思います。

時代は変化して行くけれど、人間の価値観って時代の変化のスピードよりちょっと遅いと思うんです。そのギャップに、悩むんですよね。窮屈だなと思いながら日々を過ごしている。多分そこを埋めるのが、デザイナーの仕事なんじゃないかなって、そこで思いました。それをやりたいなあって考えたのが大学生の時ですね。

ーその頃に憧れたデザイナーやブランドはありますか?

影響を受けたデザイナーとかブランドっていうと、やっぱり三宅一生さん、山本耀司さんが好きでしたね。物づくりで言ったらエルメス(HERMÈS)、デザインで言ったらマルジェラ(Maison Martin Margiela)とかを見ていました。1920年代のバウハウス(BAUHAUS)とかパウル・クレー(Paul Klee)とかも好きです。

ーそれ以外にも、東京のブランドでインターンを経験したり、布について知るために産地を訪ねたりといったことをしていたと聞きました。

それは大学3年から4年にかけてですね。自分のやりたいことを仕事にするにあたって、やっぱりもっと知識を得たいし、現場で働いてみたいっていうことも思ったので、インターンは結構積極的にやっていました。ご夫婦2人でやっている小さいブランドに、半年間行った経験は大きかったです。忙しいのに15時ぐらいになると、よくお茶に連れてってもらって。自分はデザイナーになりたいんだけどと言うと、じゃあ何が好きなの?、どういうデザインがしたいの?とか聞かれて。でも、あんまり分からないんですよ。だけど色々話してる中で僕が作ったものを見せると「生地が好きなんじゃないの?」って言われて。そうかもしれないって思いました。

ー周囲の大人のそういう一言って、若い時は意外に人生を左右しますよね。でも、ご自分でも、少しは気づいていたんですよね?

その当時は、生地を買いに行くといっても日暮里以外の選択肢は無くて(笑)。生地に産地があるっていうことすら認識していないし、誰かが生地を作っているんだっていうところまで思いが至ってなかったです。でもそこで「生地が好きなんじゃないの?」って言われたことがきっかけで、おぼろげだった未来への解像度がどんどん上がっていったんです。

「初めて西脇に行って見た物(生地)は、技術力だけを使って出来上がっていて、デザインがされていなかったんです。「手段」と「目的」の整理ができていないのだと思いました。」


ーそうして、東京生まれ東京育ちでありながら、産地に入っていくわけですね。

大学3年生も終わりに近づいてくると、就活しなきゃいけないみたいな空気になりますよね。卒業した後にどうするかっていうことを考え始めたわけですが、まず「生地に興味がある」、そして「デザイナーになりたいと思っている」というところで、苦し紛れに生地の商社を受けたんです。大手の商社だったので、特に企業内の人と会話をすることもなく、あっさりと落ちたんですね。当たり前なんですけど、これになんだか納得がいかなくて。それで、もう1社だけ受けたんです。今度はちょっと作戦を変えて、10人ぐらいの小さい規模のコンバーター(工場とメーカーの間に入る生地問屋)です。そこは結構、東京のデザイナーズブランドとの取引もあるし、面白い生地を取り扱っていました。そこの社長さんと、1次面接からずっと話ができたんです。生地に興味があって、そういう物づくりをしたいと思っているみたいな話をしたと思うんですね。そうしたら「君の話を聞いていると、生地が作りたいんじゃなくて、服を作りたいんでしょ?」って言われて。それで、やっぱり服が作りたかったんだと気がつくわけです(笑)。服を作る手段として、生地も作りたいんだって思うようになって。今度はそれが実現できる場所はどこなんだろうっていうフィルターで、世の中を見るようになっていきました。それが多分、大学4年生の最初の頃だったと思います。

ちょうどその頃、元シアタープロダクツ(THEATRE PRODUCTS)の金森香さんが、日本のアパレルを良くしよう!良くするために何ができるか?といったことを、ワークショップとかトークイベントといった活動を通して提言されていて、そのお手伝いでインターンをしていたんです。

ー2010年ぐらいでしょうか? 確かに、金森さんは精力的に活動されていましたね。

その時に「日本の産地はすごい良い技術を持っていて、世界的に見ても評価されている。それなのに、今はもう跡継ぎもいないし、人件費の安い海外に仕事が流れてしまっているし、どうしたら良いのか分からないでいる。産地の技術が失われようとしている」といった、産地が置かれたリアルな状況が聞こえてきて。実はそこで初めて「産地」っていうキーワードを知ったんです。それで次に、日本の産地の技術の何がすごいのか、どんな面白いことがあるのかを、自分の目で見たいと思ったんです。

そのワークショップの一環で、1番最初に行った産地が、実は西脇だったんですよ。テーマとしては、「ギンガムチェックの産地を見に行く」っていうツアーでした。もちろんギンガム以外にも、めっちゃすごい、見たこともない生地が沢山あって、すごい技術力に驚きました。でも、もちろん驚きはあるんだけど、なぜか最終的に心の中まで入ってこない感じがしたんです。それはなぜなんだろうと、ツアー帰りのバスの中でずっと考えました。何とか言語化しようとしたんです。

それで分かったんです。その時に西脇で見た生地は、技術力だけを使って出来上がっていて、デザインがされていなかったんです。「手段」と「目的」の整理ができていないのだと思いました。機屋が持っている技術や織機、テクニックっていうのは、あくまで布を作るための「手段」であって、デザインを現実化するための「目的」のために使われないといけないんですよね。だけど西脇で見た生地は、「手段」である技術力を見せるためだけの生地だったんですよ。デザイン的思考が入っていなかったんです。それが僕が西脇で初めて気がついた問題点でした。

ーなるほど。確かにどの世界にも技術を駆使してモリモリにしたデザインはありますが、デザインには“盛る”だけでなく、必要なら“そぎ落とす”という作業が必要なんですよね。

産地の人はもちろん気がついているんですよ。売れる布作りのためにはデザインをしないといけないという事実に気がついている。でもそのデザインが何なのかってのが分からないし、良いデザインと良くないデザインを評価できないので、自社に適したデザイナーを選ぶことも、適切に発注することもできないんですよ。そこで僕は、産地には、もしかしたらデザイナーが必要とされているのかもしれないと思った。それが10年前の話です。

これはどこの産地も同じかもしれませんが、長い歴史の中で「産地の人間がデザインをする」という機能を、持つ必要がなかったんです。つまり、デザインはファッションデザイナーがすることで、彼らからの発注のまま作ればよかったんですね。けれどその時代は終わってしまった。これから先は、本来あるべき姿として、産地の中にいる人が、デザインするという機能を持つことは不可欠である、そういうフェーズに入っていると思います。

東京よりもむしろ、地方でこそデザイナーが求められているんだ。そのことに気が付いて、もしかしたら地方を拠点にすれば、自分が理想としている「服をつくる、そのために生地を作る」っていうことができるのかもしれないと思いました。自分がそこに飛び込めば、やりたいことができるのかもしれないという仮説が立ったので、そこから今度は、産地を回りはじめたんです。

そんな中で印象的だったのは、近江産地の林与(はやしよ)さんと、岩手の日本ホームスパンでした。めちゃくちゃ面白かったんですよ、この2つが。見たことないような生地と、やり方をしていて。今でも日本の指折りの機屋さんだなと思うんですけど。自分がワクワクするような生地がザクザクあるんですよね。現地に行くと面白い生地がある、それなのに、リピートできない生地は作ってはならないし展示会に出してもいけないとか、物性が不安定な生地は売れないとか、つまりはマーケットのルールに当てはまらないものは最初からはじかれていたわけです。だから東京では、そういう面白い生地が見つけられないのだと知った。でも逆にマーケットのルールに縛られなければ、もし自分たち独自の流通の方法から設計ができれば、機屋さんの片隅にはホコリをかぶってる商品化されなかった生地が沢山あり、それは可能性の原石のようなものだと思いました。だから、それらを適切に翻訳して、世の中に出せるようにする係として、産地でデザイン活動をしたいって思ったんですよ。

ー訪問する機屋さんはどうやって探していたのですか? 事前にアポイントを入れて行くのですよね?

就活も兼ねていたので、生地を作る背景を持っていて、かつ、何か前向きな取り組みをしている企業を探していたんですね。当時、ツイッター(Twitter)やフェイスブック(Facebook)といったソーシャルメディアが出てきた頃ですが、そういう新しい動きに、自ら参加して発信しようとしている人ならば、基本的に色々なことに前向きなんじゃないかという勝手な仮説を立てて、敢えてネットだけでフィルタリングして、アポイントを取っていきました。林与さんはずっとブログを書いているから、ブログの検索でヒットしたんです。色々探していると、西脇産地の島田整織(しまだせいしょく)の嶋田社長がツイッターをやっていて、製品としてのブランドも始めていたんです。

ーそのブランド名が「ハツトキ」だったんですか?

そうなんです。ただ当時の製品は、生地を売るためのサンプル的な立ち位置っていうのが大きかったと思います。でも僕はそれに可能性を感じたので、この「ハツトキ」を専任させてくれませんか?っていうのを、ツイッターで社長に直談判したわけです。

ーそれはいつ頃のことでしょうか?

大学を卒業して、文化服装学院の服飾研究科に入ってからです。5月か6月ぐらいの頃だと思います。

ー動きが速い! ところで、なぜ文化に入ろうと思ったのですか?

今までお話ししたように、まず祖母に服作りを学び、インターンで布や産地について学び、大学の図書館で独学でデザインについて学びました。“点”として自分の中に存在しているものを、“線”にしたいなって思ったんです。それが文化に入った、1番大きなきっかけですね。

ー文化に1年間通って、その前後ぐらいで、もう嶋田社長には連絡も取っていて、求人があったかどうかは分かりませんが、とにかく受け入れてもらえたってことなんですね?

そうですね。産地の人たちは当時、すでにかなりの危機感を持っていて、そのタイミングで東京から、やる気満々の若者がいきなり「ブランドをやりたい!」っていうふうに来たから、割とみんなポジティブに受け止めてくれるようなタイミングでした。求人はね、もちろん出てなかったんですよ(笑)。「ハツトキ」も、立ち上げてまだ1年半ぐらいの事業部でした。社長が危機感を持って、これからそういう製品だったりとか、より付加価値の高いものに取り組んでいかなきゃいけないって分かってはいたんです。でも他の人から見たら、こんな遊びみたいなことをやって、在庫も残るし、何もいいことないと言われていました。普通だったら、まさか、そこで更に人を雇うなんてありえないんですが、社長の独断で雇ってくれたんです。

ー運は自分で掴むものですが、やはり人に支えられての出発だったということですね。島田整織は産元(さんもと)商社ですから、生地の発注を受けて、それに合った工場と組んで生地を作っていくと思いますが、そうなると村田さんが取り組む「ハツトキ」も、自由に発想するというよりかは、こなさなければいけない責任があったと思います。あるいは、社長から課せられた課題みたいなものは何かありましたか?

西脇は分業が進んでる産地なので、うちの会社は工場を所有していないんです。島田整織は産地の営業マンであり、生産管理部署ですね。そこにデザインの機能があるという感じです。だから「ハツトキ」はファクトリーブランドではなくて、産地発信のブランドという位置づけですが、うちの社長はこれをやりなさいということはほとんど言わないんですよ。だから基本的には自分で考えて動かないと本当に仕事にならないんです。だから僕はがむしゃらに、新しいものを開発して販売していくということをやっていました。製品を売るためのイベントを企画して、実際に店頭に立って売りに行くこともしましたし。

ー静かなプレッシャーを感じながら熱意を持って仕事をされていたと思いますが、とはいえ、最初から自分が思い描く生地を作ってもらえるのは凄いことですよね?

本当にその通りです。織物は特に、オリジナルで生地を作るための最小ロットが大きいし、生産背景の文脈を相当理解していないと、自分の思うものを作ることは難しいと思います。産地に入って機械の制約や、特徴、職人の癖のような物を身近で見れることは、素材から作り込みたい、と考える場合は本当に理にかなっていると思います。

「言葉にするなら「瑞々しさ」みたいなことなのだと気づいた瞬間がありました。自分たちが持っている素材の、細くて繊細で艶があって、しっとりとしているっていう特徴を、西脇の景色と紐づけることで、「ハツトキ」らしいモノづくりに落とし込むことができた。」

ー「ハツトキ」のブランドコンセプト作りみたいなことは、どう構築したのですか?

島田整織に入ったのが2012年です。入ってから2~3年は、「ハツトキ」らしさとは何なのか?というところを本当にずっと考えていました。当時、島田整織が得意としていたのが、100単(100番単糸の略)と呼ばれる極細い糸を使った繊細な生地でした。だから100単の風合いを感じてもらい伝えることが売りのポイントではあったんですけど、何も知らない人が「100単」って聞いても、想像が膨らまないじゃないですか。その説明は、技術を伝えるための手段ではあるんだけど、デザインを伝えたり、ブランドカラー、思想や哲学を伝える手段ではないんです。やっぱりそこに、もう一つ何かが必要でした。「ハツトキ」って聞いたときに、人が思い浮かべるイメージを作らないといけないと思いました。

ーもともと存在していたブランドを、新たな目線で整理しながら育ててきたと思うのですが、その成長の段階で、失ってはいけないものもあったと思います。それらをキープしながら、どういうふうに変化させてきたのかを教えてください。

僕が大事にしたいのは、できあがった物についてのストーリーを話した時に、受け手の脳内だけじゃなくて、心の奥まで染み込んでいくようなことが必要だという点なんです。それは、糸が細いとか、それを織る技術が難しいとか、そういうことではないと思うんですよ。それはすでにベースにある当然のことで、そこからどうインスピレーションを広げていって、共有できるかどうかが、洋服のデザインでは大事な事だと思っています。自分たちが得意としていることと最終的なデザインとが繋がり始めたのは、ほんの5年前ぐらいです。

言葉にするなら「瑞々しさ」みたいなことなのだと気づいた瞬間がありました。西脇の自然の中から生まれてくる瑞々しいテキスタイルと、そこから生まれる服との関係性が、ある日、山の間を通勤しながら、ひとつに繋がったんです。それは僕の1番の発見というか、革命的な出来事でした。自分たちが持っている素材の、細くて繊細で艶があって、しっとりとしているっていう特徴を、西脇の景色と紐づけることで、「ハツトキ」らしいモノづくりに落とし込むことができた。天然素材の「瑞々しさ」。それは西脇の土地の水の豊かさだったり、山から出た霧が町中にかかっている様子だったり、大きい川が流れていて、その水面が陽の光でキラキラ光っている情景から来る。その川下には染色工場があって生地が染められ作られているという歴史的背景まで含めて、僕らの作っている生地っていうのは、自然の循環の中の一部で、天然素材の瑞々しさを感じることができる。それ以降、ブランドのシルエットが見えてきたという感じですね。自分の作る服は、こういう女性像なんだなっていうことも分かったり。

ーそれはすごい発見でしたね。あきらめずに、考え抜いた人だけが辿り着ける世界のように感じます。

例えば北欧の生地と聞いたら、テキスタイルを見ただけで、北欧の自然の景色とか、暮らす人々のこと、素朴だけど物を大切にしているような感覚といったところまで感じられるじゃないですか。同じ様に、西脇の播州織とか「ハツトキ」の服って聞いた時に、そういう景色までをも想像してもらえたらと思っています。ただ布や服を作るだけでは、イメージまでは共有できません。言葉一つ、ブランドの振る舞い一つ含めて全体性を大切にしてトータルな世界観で感じていただけるように、ブランドを強化していったという感じです。

さらに最近は自分たちの売り方がちょっと変わってきました。コロナの影響も大きいんですが、卸向けの展示会を辞めたんです。代わりに直販のイベントを強化しています。もちろん、もともと卸があったところとは、継続しているんですが、直接お客さんと繋がって、自分達で直接販売をするっていうところに重きを置こうというのは、ここ1、2年の動きなんです。だから基本的にはコレクションを発表して、それをプレスで掲載させて、みたいなことはほとんどやっていません。

ーそれは、どういう気持ちの変化からですか?

実はコロナになる前から、自分のブランドの特徴として、卸先がメインの商売になってしまうと、すごく弱いなと感じていたんです。本当にコロナでそれが明らかになったと思ったんですけど、百貨店が閉まりますって言ったら、そこで予定してたイベント収入はゼロになっちゃうんですよ。それって体制としてすごく弱いじゃないですか。だけど、自分たちが1人1人お客さんと繋がっていたらゼロにはならない。世の中の状況がすごく変わったとしても、やっぱり直接お客さんとつながるってことが、すごく大事なんじゃないかというのは、3年前から感じ始めていて。だからコロナをきっかけに展示会を無くして、その代わり、自分たちのお客さんとの関係性を大切にして一人一人とコミュニケーションをとって販売して行きましょう、オンラインストアに力を入れましょうっていうスタイルにシフトしました。

売り方をシフトしたことによって、物作りの仕方もシフトできました。例えば、MDの組み方を半年サイクルのコレクションに合わせないで、1か月単位で、その時に提案したいものを作って発表するという形にしたんです。そうすることによって、僕は物づくりにも面白いことが起こるなと予感しているんです。例えば展示会に出して、4か月後に店頭に並べなきゃいけないと思ったら、そのリードタイムの中で作れるものしか作れないですよね。だけど面白い生地とか、初めて作る生地ってリードタイムがすごく長かったりするので、マーケットのサイクルに合わせると面白いものがはじかれてしまうことが多かった。そこを解決できるんですよね。根本的に流通のサイクルを変えることによって、今までできなかった企画だったり、クオリティの物が作れるようになるんじゃないかというのも、可能性として感じていて、今はその方向に舵を切っています。

ー確かに産地の中にあるブランドとしての利点を、最大限に生かしたブランディングが有ってもいいですよね。

そうですね。1つの成功事例になったらいいなとはすごく思ってますね。産地はただでさえ不景気だったここ10数年の上に、今回のコロナがあって、本当に希望が見えにくい状況になってしまった。そういう中でも新しいことをちゃんとやったら儲かるんだぞっていうのを示せるっていうことがすごく大事だと思います。

「産地に行くなら、あんまりやる気満々で行かない方がいいと思います。あれやこれや想像し過ぎちゃうと絶対にギャップがあるから。柔軟な心構えというか、ギャップはあるものなんだと思って、ゆっくりと時間をかけてやるべきことを見つけていくような気持ちで来た方が良いです。」


ー「ハツトキ」の、最近のヒット作は何でしょうか?

色々ヒットの品番はありますけど。細番手の繊細なストール、シャツ、ワンピースは初期の頃から変わらずに人気ですね。そこに今ウールとリネンの地厚のものが加わって、もうちょっとデイリーユースに寄せたエプロンみたいなものが加わって、底上げされてる感じですかね。

ーちょっと話が戻りますが、村田さんが西脇に移住した少し後に、「西脇市デザイナー育成支援補助金」というのがありましたよね? 産地企業と移住を希望するデザイナー志望の若手とのマッチングシステムでしたが、それはとてもよく考えられた取り組みだと感じていました(取組みは、2020年度で終了)。

それがきっかけで西脇に定住して自分の仕事を見つけている方も何人かいます。それは僕は本当に素晴らしいことだと思うので、ひとつの成果だなと思ってます。僕が来た頃はその制度はまだなかったので使っていません。移住に関しては、本当に何にも考えてなかったというか、面白いことに、移住するっていう発想ではなかったんですよ。気負ってなかったというか。トランクに何日か分の着替えとミシンを入れて来たんですが。仕事をしに行く、という感覚だったんだと思います。だから引っ越しみたいな作業もしていないし、東京にいたそのままの延長線で、何となく暮らし始めちゃいました(笑)。

ーこれから産地に興味を持った若い人への心構えというか、心の準備みたいなことを教えてもらえると嬉しいのですが。

まず行く側としてはあんまりやる気満々で行かない方がいいと思います。最初から出鼻をくじくようで申し訳無いですが...。やる気があることは悪いことじゃないですよ、でも、あれやこれや産地での暮らしを期待し過ぎちゃうと絶対にギャップがあるから。柔軟な心構えというか、ギャップはあるものなんだと思って、ゆっくりと時間をかけてやるべきことを見つけていくような気持ちで来た方が良いです。そこをちゃんと分かって来るっていうのがすごく大事かな。あとその土地の暮らしやコミュニティに入ることを楽しむことが大事だと思う。それが自然にできている人は、結果的に上手くいくように思います。

もともとコットンの産地だった西脇産地。1年を通して綿花を栽培するワークショップ“サブロクコットン(365cotton)”の活動は世代を超えたコミュニティに。綿花栽培を体験してみたいと問い合わせも多く年々活気を帯びてきた。西脇以外のエリアからも参加が可能。

ー最後に、若手を受け入れる側の、産地の方々に送る言葉も伺えたら嬉しいです。

難しいですね。産地の状況も半分は理解してしまっているだけに。市役所など行政、産地企業とでそれぞれ役割が違うと思いますが、まず行政は企業同士の横のつながりを作ったり、コミュニティのようなものを作っていくイメージで事業を展開するのがよいと思います。西脇では実際にそのようにして、コワーキングスペースを作ったり、勉強会を開催しました。産地の企業は通常企業同士ではつながらないことが多いのですが、コミュニティがあることで、外部から来た人たちにとっては安心感があり、とても助けになるはずです。

企業側は、従業員の一人一人が産地の仕事に誇りをもって、生き生きと働いているか、工場にしてもただの作業員になっていないか、と言う点を意識していかなければ、特に移住してきた若手の定着は難しいかもしれないと思っています。新しい人が、そこにコミットしたい、この産地を良くしたいと思うかどうかは、結局は、産地にいる人たちと、10年先、20年先にも一緒に仕事がしたいかどうかだと思うんです。職人さんにいつまでも仕事を続けてほしいと思ったり、こんなに素晴らしい人たちの、この仕事を未来につなげて行きたい!そんなふうに心から思ってもらえるかどうかが全てだと思います。

村田裕樹 Yuuki Murata
1988年 東京都生まれ。大学在学中に服作りを開始。東京で活動するブランドのアシスタントなどをする中で、素材に興味を持ち全国の生地産地を回る。2012年より 島田製織株式会社に入社、hatsutokiのディレクター/デザイナーとして活動。

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