見出し画像

【TOP INTERVIEW: ファッションデザイナー 大森美希】海外でデザイナーとして活躍し続けるために

今回のゲストは、海外のラグジュアリーブランドでファッションデザイナーとして活躍し続け、現在進行形でチャレンジを続ける、大森美希さんです。20年に及ぶ欧米のファッション業界で磨かれた経験とスキルは、これから海外を目指す人だけでなく、日本にいながら現状を打破していきたいと考える人達に勇気と希望を与えるはず!

―海外のファッション業界で、日本人モデリスト(パタンナー)は多いようですが、デザイナーとして活躍されている人は珍しいと聞きます。大森さんが20年近くデザイナーとして活躍できている秘訣というか「なぜそれができたのか?」という点が一番知りたいです。

そうですね、スタージュ(インターンシップ)として修行していました、という方は結構いらっしゃるんですけど、海外に20年居続けて、デザイナーとして会社に所属している人はなかなかいないですね。私がいたラグジュアリーブランドのトップは、アーティスティック・ディレクターと呼ばれる人達ですから、「私がデザイナーをしています」と表に出ることはできなかったんです。それでなかなか日本の方々に知っていただく機会が無かった。ただランバン(LANVIN)にいたときエル・ジャポンからインタビュー記事のお誘いがあって、当時のアーティスティック・ディレクターはアルベール・エルバス(Alber Elbaz)でしたが、「アルベール、私、エル・ジャポンから仕事の依頼があったのだけど、受けてもいい? 内容は私の海外生活についてらしいの」って相談したら、アルベールが「お母さんのためにやりなさい」なんて言ってくれて、お引き受けしたこともあるんです。今はちょうどニューヨークからパリに戻ってフリーの状態なので、このタイミングで、20年間、海外のファッション業界を追っかけてきた私の経験をオープンにしていくことで、もしかしたら日本のファッション業界や学生達の役に立つようなことを、伝えていけるんじゃないかと思って。だとしたら、どういう風に伝えていこうかと考えていたりします。

「二コラが採用してくれたおかげで、夢にまで見たラグジュアリーブランドでのデザイナー人生がスタートしました」


―海外生活の始まりはパリですが、つい最近まで、ニューヨークにいらしたんですよね?

パリでの最初の職場は、バレンシアガ(Balenciaga)でした。2002年に、クリエイティブ・ディレクターの二コラ・ジェスキエール(Nicolas Ghesquière)にデザイナーとして採用されたんです。彼が採用してくれたおかげで、夢にまで見たラグジュアリーブランドでのデザイナー人生がスタートしました。当時のバレンシアガは人数も少なくて、どこかアットホームで。そこに約4年いました。彼は今は、ルイ・ヴィトン(Louis Vuitton)のウィメンズ・アーティスティック・ディレクターですね。それから2006年にランバンに行き、アルベール・エルバスの元に約5年いました。このときはシニア・デザイナーとして採用されました。アルベールからも学ぶことは多かった。2011年にはニナ・リッチ(NINA RICCI)に行き、イギリス人のクリエイティブ・ディレクター、ピーター・コッピング(Peter Copping)の下で、彼の右腕として働きました。ニューヨークに行ったのは、そのあとの2015年から。いずれまたパリに戻るつもりで、修行のために、3年半の期間限定で行こうと思って、ひっそりとパリを出ました。ニューヨークでは、コーチ(COACH)のウィメンズ部門のシニア・デザイン・ディレクターをしていたので、部下が9人いて、年4回のコレクションを担当して、パリとは違った経験が沢山できました。それで予定どおりの期間を終えて、またこっそりとパリに帰ってきたんです(笑)。

「布帛のデザイナーは、ブランドの社員として入社して、つまり会社員としてクリエイティブ・ディレクターのそばに付いて、いわば付き人のような存在なんです」


―パリでもニューヨークでも、常にステップアップしたポジションを獲得して、優秀なクリエイティブ・ディレクターと対等に仕事をされてきました。次のステップアップを考えたとき、その場所はどこになるのでしょうか? 次もやっぱりデザイナーにこだわるのですよね?

もちろん! ニューヨークからパリに戻ることもリスクだとは思ったんですが、でも、もう一度、メゾンで仕事をしてみたい気持ちがありました。目指すとしたら、クリエイティブ・ディレクターの右腕とか。希望する仕事が見つかっても、契約の段階で提示された条件が合わないと、断ったりすることもありますし、そこでの駆け引きもあります。ランウェイで発表ができるようなブランドの仕事を獲得したこともあるんですが、短期間だけ華々しくやって、あっという間にいなくなっちゃうようなデザイナーになるのは嫌だなと思って。自分自身が小さなメゾンのクリエイティブ・ディレクターになるのはやはり憧れますね。

画像2

COACH 1941、2018年春夏コレクション作品

あと何週間かで50歳になるんですけれど、ラグジュアリーブランドのメインスタッフは20代、30代の若い子たちで、40代とか50代って、ほとんどいないんですよ。いるとしたら、専門性のあるニットデザイナーとかテキスタイルデザイナーで、彼らはフリーランスであることが多いです。そういう専門性のある方たちは、40代でも50代でもセンスがあれば仕事を続けていけると思うんですが。このパンデミック以降、もしかしたら変わるかもしれませんが、私が経験してきた布帛(ふはく)デザイナーの仕事は、実はほとんどが、そのブランドの社員として入社して、つまり正社員としてクリエイティブ・ディレクターのそばに付いて、いわば付き人のような存在なんです。お昼も一緒に取ったり、チームとして仕事をするのが主流なんですね。

大きいメゾンだとチームは更に細分化されていて、たとえばテーラーとフルー(ドレス)に分かれていたり。さらにランウェイのコレクション(メイン・コレクション)とプレ・コレクションの担当チームに分かれていたり。そういう細分化が顕著になってきたのは2006年くらい。価格が安く設定された商業用のプレ・コレクションの位置づけが、メゾンにとって重要になっていった頃です。プレ・コレクションの服を見せる手段も、プレゼンテーションやショーのような大がかりな物になって、メインのコレクションと差が無くなってきたり。そうすると一つのチームでこなすことが、量的にも時間的にも困難になるので、チームを分ける必要が出てきた。その場合でも、フリーランスのスタッフはコンサルティングの人ぐらい。しかも大きいメゾンのコンサルティングって、普通は有名なファッション・エディターとかスタイリストがします。結果として現在の私の希望条件をクリアするには、やはり次もどこかの会社に正社員として入る必要があります。

初めラグジュアリーブランドに就職するのは非常に難しいのですが、でも、いったんこのシステムの中に入っちゃうと、転職もわりとスムーズですし、同僚達とも一生友達みたいな部分はあります。今でもバレンシアガ時代の人達が助けてくれますし。最初にバレンシアガに入った時は、言葉も上手く喋れないし、遅くまで働くことが理解されなかったりしました。それでもパリからニューヨークに渡って、シニア・デザイン・ディレクターを経験したことで「ミキはちょっと違うな」って、みんな評価してくれたと思うんです。他の欧米人だったらそんなに時間はかからないのかもしれないけど、日本人がそのシステムの中で認められるっていうのはすごく大変なことなんです。

「海外では役職とサラリーをステップアップしたいと思ったら、他のブランドに行くしか方法が無いんです。転職のためにはヘッドハンターとの人間関係が大事」


―自分がどのように扱われるかを自分で決めて、より良い条件を求めてステップアップしていくというのは、最近は日本でもあると思いますが、欧米のファッション業界での転職の方法として、ヘッドハンティングの仕組みがきちんと機能していると聞きます。昔からあるのでしょうか?

バレンシアガに入ってからその存在を知るんですが、私自身、2005、2006年にはもうコンタクトを取っていましたね。ロンドンのインデザイン(INDESIGN)なんかは60年代からあるヘッドハンティング専門の会社と聞くので、60年代後半から70年代にはこういうシステムがすでにあったのだと思います。重要なポジションは表立って募集広告なんか出ないですから。フロリアンヌ・ドゥ・サン・ピエール(Floriane de Saint Pierre & Associés)なんかも老舗ですね。ヘッドハンター達も、別のリクルートの会社に移って仕事をしたり、大手のメゾンの人材発掘の部署に行ったり。みんな回ってるんですよ。だから一回その中に入れば、連絡は取りやすくなる。受かるかどうかは私次第ですけれどね(笑)。転職のためにはヘッドハンターとの人間関係は大事だと思います。でも今はメゾンの人事部と直接やりとりする場合も多いです。LinkedInを駆使したり。

―今までどおり、ステップアップを目指したアクションをしていくと同時に、今年の9月からパーソンズ・パリ校で教える側の活動もしていくそうですね。

パーソンズのお仕事はタイミングが良かった。29歳でパリに来る前の5年間、日本で服飾専門学校の先生をしていたので、自分にこの仕事は向いてると思っています。パーソンズではMFA(Master of Fine Arts in Fashion Design and the Arts・修士課程)のデザイン・スーパーバイザーという肩書きです。外部から来た講師たちは常に学校の仕事をしているわけではないので、どうしても授業と授業の間の時間をコーチングしていく存在が必要になるんです。私の主な仕事は、講師たちの考えを基に制作に取り組む学生の動きをサポートすることです。今までの経験が存分に生かせると思います。

「デザイナーになりたいのなら、自分のデザインについて語れる、プレゼン能力を上げていく必要があります」


―パーソンズ・パリ校の新しいコンセプトは「ファッションデザインとアート」と聞きました。大森さんはパリに行かれてすぐの1年間、ステュディオ・ベルソー(Studio Berçot)でパリのファッション教育も受けていますよね。そのときの経験も含めて、日本との違いを伺いたいです。

まず海外で学ぶからには、語学をマスターしていくのは当然ですが、他の国の人達と日本人との大きな違いは、日本人は自分のデザインコンセプトを説明する能力が弱いことです。プレゼンの能力ですね。海外のファッションデザイン学部ではプレゼンテーションの授業がとても多いし、実際にデザイナーとして入社してもプレゼン力は必須です。それが苦手ならモデリストになるほうが、空気を読むことに長け、技術や忍耐力がある日本人には向いているかもしれません。実際日本人のモデリストは海外にとても多いのですが、もし海外でデザイナーになりたいのなら、自分のデザインについて語れる、プレゼン能力を上げていく必要があると思います。さらに、ブランドを経営的に回していく能力が弱いので、せっかくいい技術やデザイン力を持っているのに、それを生かしてブランドを立ち上げても、継続することができない。これからの大きな課題のような気がします。

―プレゼン能力はアワードやコンテストにチャレンジする際にも、絶対に必要な能力ですよね。人によっては言葉が上手じゃないので、ポートフォリオをしっかり作った、という話も聞きます。ポートフォリオの大切さも、ここ10年ぐらいで、やっと強化されてきました。あと一つ、コンセプトという言葉の正しい理解が深まるといいんじゃないかと感じています。

私が経験してきたラグジュアリーブランドにはディレクターがいましたが、そこでの仕事も、結局はチームワークで形にしていくんですよね。そうなると他人に理解してもらう必要が当然出てくるわけです。私がこれから関わるパーソンズでは、コンセプトやアイデアを「どうやって発展させていくか」ということを勉強していくためのカリキュラムが設けられています。学生は制作過程で、全員プレゼンが必要なんです。ある時は外部の業界の人に評価されたり批判されたり。そういう審査員が定期的に来るわけです。学生はそういうストレスに耐えなきゃいけない。どういうリソース(資料)やリファレンス(参考文献)を、どういうふうにディベロップ(発展)するのかという過程が大事なんです。そこをすごくチェックされますし、勉強していきます。その場合の表現方法は、絵が得意な人は絵を描けばいいし、3D(立体)が得意な人はドレーピングをすればいいし、何でもいいんです。究極は説明能力さえあればクリエイティブ・ディレクターになることも出来ると思うんです。それができたら、あとはそれに共感してくれた人達が手伝ってくれるんです、自然と。じゃあ「私が代わりにドレーピングしてあげる」とか、「デザイン画とかイラストを描いてあげる」とか、「営業をしてあげる」、「プレスをやろうか?」ってなるわけです。デザイナーが一番大切なのは、みんなに自分がしたいコンセプトを説明できるかどうかだと思うんです。共感してくれる人をどれだけ集められるか。最初はお金が無いから集まってくれないかもしれないけど、ただでやってくれる人だっているかもしれない。現実的には最初は全部1人でやらないといけないとは思うんですが。でもそこを一生懸命やっていたら、人は付いてくると思うんですよね。人を惹きつける人間性を養うことも大切なことだと思います。

画像1

韓国人スーパーモデル、ソラ・チョイとツーショット。COACH 1941、 2019年春夏コレクションショーのバックステージにて。

「海外のファッション関係者は“時代の空気感”とか、“時代背景”をきちんと理解していて、その時代の服も見ています」


―ディレクターとの相性もありますよね?

ディレクターの好きなデザインとか色の癖とか、布の選び方とかが違うから、そこを敏感に感じ取って対応していかないといけない。バレンシアガで称賛されたとしても、ランバンでは評価されなかったり。国によっても仕事の段取りや方法論が違いますし。もちろんチームワークなので人柄も重要ですけど、そのブランドの成り立ちやDNAをしっかりと理解していることや、クリエイティブ・ディレクターが打ち立てたコンセプトに沿った服を作れるかどうか、さらに、デザインを担当した服が売れるかどうかも、その人を評価する上で重要なポイントとなります。そういう意味では、J.W.アンダーソン(JW Anderson)やデムナ(Demna Gvasalia)、ミケーレ(Alessandro Michele)はすごいと思いますね。ブランドにきちんとお金をもたらしている訳ですから。今はそういうビジネスの能力もデザイナーには必要です。

―大森さんのSNSを拝見していると、映画や音楽、アートやカルチャー全般に対しての情報を、常に自分の中で更新して、蓄積しているように感じます。美学というか、美しいものに対しての感度を常に磨いている。

実際に私がこれまで所属したチームでの経験を話しますと、新しいコレクションのためのコンセプト作りや布地選びをするために、まずはスタッフ全員で蚤の市に行ったりするんです。あるいは、ヴィンテージ・ショップに行くんです。そこで何かピンと来るものを探して、時には買ったりして。そうやって、だんだんイメージを膨らませていく。それで、たとえば1980年代後半のジム・ジャームッシュ(Jim Jarmusch)監督の『ミステリー・トレイン』のイメージかな?となったら、そのときに「ミステリー・トレインって何?」ってなっちゃうと、そこから必死に勉強しなきゃいけないですよね。もしくは、その言葉自体を映画のタイトルだと分からなくてスルーしちゃったら、間違った解釈をするかもしれない。そこですぐに「あ、ジム・ジャームッシュか。じゃあこんな感じかな?」って分かった方が、絶対に得だと思いませんか? 同僚よりも少しでも早く察知できたら、一歩先に行けるじゃないですか。特別に才能がある人だったら別ですが、みんながそんな才能がある訳じゃないから。やっぱり膨大な勉強量と膨大な知識量が必要で、それをチームの仕事の中でガンガン活用しながら、どうやって発展させていくか、という能力がとても大切だと思います。デザイナーが上手に縫うことができるかできないかは二の次なんですよね。

たとえば、バラの花をインスピレーション源にして、バラの形そのままのドレスにしてしまうとか。それだと全然アイデアが膨らんでいない。そういう人は、リサーチからコンセプトに落とし込んでいく方法とか経験、知識が足りないんでしょうね。海外のファッション関係者は「時代の空気感」とか、その時々の「ファッションが生まれた時代背景」をきちんと理解していて「その時代の洋服」を見ています。参考資料は洋服であることがほとんどなんです。だからファッションデザイナーを目指している人は、ありとあらゆるブランドの服やコレクションやショーを、くまなくチェックするのはもちろん、いろいろな年代の映画や音楽、ファッション写真やアート、建築を死ぬほど観まくることをおすすめします。それが後のデザイン活動に必ず活きてくる。その必要性は、私が海外に来て痛感したことです。

「ここ何年かで、もっと自分が表に出たい!っていう欲求が出てきたのは事実です」


―大森さんのnoteはフォロワーが6,000人越えで、拝見すると、読者からの問いに全力で答えるような内容ですよね。もっと表に出て、有名になっていいと感じました。

パーソンズ・パリで教える事だけに専念するのではなくて、先に言ったみたいに、あと5年くらいはデザイナーをするつもりで、タイミングを見て動いています。いつも自分の人生の目標を、5年とか10年とかのロングスパンで考えて、それが予定どおりできているかどうか途中確認と調整をしながらステップアップしてきました。パリに戻った時点で、あと5年ぐらい、つまり55歳くらいまではラグジュアリーの世界で働いて、その後、徐々にYouTubeとかSNSとかを始めて、インフルエンサーみたいな仕事がしたいなと思っていたんです。そうしたらパンデミックになってしまった。「だったら前倒しでやってしまおう!」と思いました。20年間、欧米のファッションに馴染むようにと、日本のファッションをできるだけ見ないようにしてきたんですが、今の日本の20代、30代の若者がどういうことに興味があるんだろうって、それを知りたくて、Twitterとかスタエフ(stand.fm)そしてClubhouseをスタートしたんです。でもファッションとは全然関係のないIT系やマーケティングの人とも繋がりができて、そうしたら、彼らと話す内容がファッション業界人と話す内容と全然違って、新しいことが得られると感じ始めました。

理系の人の技術とか、IT系の人の技術ってこれからのファッションには必要だと思うんです。でもその人たちとアパレルの人達って、両極ぐらいに離れていると思う。理系で全然違うことやってるけれどファッションが好きな人と、ファッション業界が融合したら面白いんじゃないかって思っています。私が色んな分野の人と話をしたいのは、常識を打ち破るじゃないけど、これからのファッションの世界には、違う業界の人々の新しい発想が必要なんじゃないかと思うから。ファッションの生き残り方が見えてくるかもしれないと思うんです。ファッションは無くならないとは思うんですけど、今の形態だと難しいですよね。パンデミックを機に、時代が変わってしまったので。

―これからは、セミナーとかコンサルティングのお仕事もされるということですか?

実はJETROからのお仕事で、日本のテキスタイル関係者向けにセミナーをしました。海外のメゾンに営業に来る方たちで、私も会ったことのある人達がセミナーを聞いてくれました。彼らが直接会うのはメゾンのファブリックの担当者です。私はそのセミナーで、海外のデザイナー達がどういう風にセレクションしてるか、どういう要求をして、どういう見方をしているのか、効果的なプレゼンとはどういうものかといったお話をしました。日本の営業の方は素材のこだわりを丁寧に説明をしてくれるんですが、デザイナ―は長々とした説明を聞く時間がないんです。マーチャンダイザーがこういう種類の生地を選んでくださいっていうのが決まっていて、同時に私達デザイナーが作ったムードボードとの兼ね合いで決めるんですけど。とにかく1シーズンに何千という膨大なスワッチを見て、感覚で選んでいくので、それに合わせた効果的な見せ方が必要だと思うんです。日本の生地は評価されています。だからこそ、私が彼らにできることは、ヨーロッパのデザイナーの見方と、どういう見せ方をしたら一瞬で「これはいいっ!」って思わせることができるか、一瞬で感動させるテクニックをデザイナーの立場から教えたり、コンサルしたりすることができると思っています。

―引く手あまたな気がします。大ブレイクかもしれない。

海外のラグジュアリーブランドで20年の間にデザイナーとして4つのメゾンで働いて、クリエイティブディレクターの下でチームメンバーを率いて働いた日本人は、おそらく私だけだと思います。その唯一無二のニッチな部分を持ったインフルエンサーになれたら嬉しい。私、結構ミーハーで、武井壮さんとか、林修さんとか好きなんです。一つの分野で秀でたものを持っていて、唯一無二の世界観があるから成功しているじゃないですか?もしかしたら、芸能人やお笑いの人やYouTuberのお話が今は参考になっているかもしれません。パンデミックで時代が変わってしまった感があるので、今までの経験に慢心できない。常に危機感はありますが、これからの時代の半歩先を行く新しいことをやっていきたいですね。

大森美希 MIKI OMORI
1971年 栃木県宇都宮市生まれ。文化服装学院アパレルデザイン科卒業後、服飾専門学校で5年間の教員生活を経て2000年に渡仏。パリのモード学校ステュディオ・ベルソーに1年在籍。その後バレンシアガ→ ランバン→ ニナ・リッチのデザインチームに勤務。2015年9月からはNYに移住し、COACHでシニアデザインディレクターを経験。2019年拠点を再びパリに戻し、この9月からパーソンズ・パリ(NYにあるパーソンズ美術大学のパリ校)の修士課程(MFA)でデザインスーパーバイザーを務めるほか、学士(BFA)の3、4年生にもファッションデザインを教えることに。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?