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【TOP INTERVIEW: カナーレ 足立 聖】テキスタイルに夢を見た。尾州産地のマイスター

多くの若手デザイナーにとって、自分の思い描いたオリジナルの布を作ることは喜びであり、いつかチャレンジしたいことの一つです。実際には最低限のロット数に見合わず、断念することも多いのが事実。Tokyo新人デザイナーファッション大賞プロ部門のCREATORS TOKYOブランドへのサポートでは、デザイナーからの希望を汲んで、オリジナルのテキスタイル作りを経験するための「産地コラボ」というサポートをしています。各産地に沢山いるマイスター達。その中から今回インタビューさせていただいたのは、デザイナーが絶大な信頼を寄せる、「産地コラボ」企画の人気者、カナーレの足立 聖さんです。(人物撮影:末松グニエ文)

「昭和40年代の初め、機屋さんやってるとこは景気がいいわけですよ。その頃に小遣い稼げるんだったら何でもやったらいいと思って、近くの機屋さんで見様見真似で機械を動かしてたのが始まり。」

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ー今回、足立さんにインタビューしようと思った一番の決め手は、「産地コラボ」サポートの一番人気が、カナーレだったということなんです。ウールの季節に限らず、多くのブランドが申し合わせたようにカナーレを指名してきて。足立さんが作る布はクリエイターを刺激するんだなと感じました。まずは織物の世界に入ろうとしたきっかけを教えてください。岐阜の生まれですよね?

岐阜の生まれです。織物の世界に入ろうと思ったきっかけは、はっきり言って貧乏人の子沢山だったからですよ。きょうだいが7人いて、下から2人目なんです。自分が育ってるこの家で、私は親にお金をくれってことを言えなかった。じゃあ自分で、どう稼ごうかってことになってくる。そんなことを考えていた時、周りに機屋(はたや)さんっていっぱいあったわけや。当時、昭和40年代の初め、機屋さんやってるとこは景気がいいわけですよ。織機(しょっき)1台につき、女工さんが2人ずついる。今だと信じられんような贅沢な世界です。その頃に小遣い稼げるんだったら何でもやったらいいと思って、近くの機屋さんで見様見真似で機械を動かしてたのが始まり。

ーということは中学生くらいから織機に触れていたんですね?

中学生くらいから見様見真似で何となく動かせちゃう。それで、それができちゃうなら、暇な時、来やいいやんって言われて。そっから入ってったいうのが事実やね。

ー高校時代はどんな学生だったんですか?

勉強だけじゃなくて、部活にも入ったけど遠征に行くお金がない。だから違うことを始める。色んなもん作ってみては作品展に出してみたりさ。生地とか機械とか。どっちか言うと機械やね。賞は結構取っとる。何でも勝手にやらせると、何か賞を取ってくるって、学校も何も言わへん。賞金なんかは付録みたいなもんやね。

高校卒業前に就職試験でレナウンを希望したんよ。その頃のトップ企業だった。最終面接のときに「こういう仕事が俺はしたい」っていうのを説明したら、それは下請けに行ってくれって言われて。「違う、わしはここを受けたんや」って言って。帰る時に「わしはもう来ぉへん」って、はっきり言って。学校に帰ったら、今後お前には一切、どこも紹介出来ないって言われた。みんなが競って行くとこやのに、お前は自分で断ったんやから、学校は何も出来ないよって言われた。行くとこあらへん。困った言うて、自分で会社探して「先生、あそこに紡績の会社があるんや。そこ行きたいと思うで聞いてきて」って。それで就職できたのが郡上(ぐじょう)紡績。結果、24年間お世話になった。

ー話が戻りますが、高校には専門の知識が学べる科があったのですか?

高校は今でもあるけど、岐阜工業高校。そこに紡織科っていう科が2クラスあって、染色科が1つあった。今はもうないです。そんな学校どこにもないですよ。繊維関係の科がある工業高校はどこにもない。

ーそれで卒業後に郡上紡績に就職したわけですね。

郡上紡績は紡績の会社で、紡毛(ぼうもう)紡績と梳毛(そもう)紡績と両方持ってて。その中に織物の部門がちょこっとだけあって。自分はそれがやりたいわけや。そこで色んなこと、特に織機のことは全部自分でやれるように覚えて。

ー教えてくれる方はいたんですか?

やってる人はいるわけやから、聞きゃあ教えてくれるんだと思うけど。わしはどういうわけか、知っとるって言ってまった(笑)。中学生ぐらいから、色んなとこで色んなことやってきたもんで、何か出来るような気がして。言うちゃったから最後、教えてくれないじゃないですか。遮二無二勉強しましたよ、そこから。

ー工業高校の時も、織りの勉強はしますよね?

織りの組織の作り方とか、色んな計算の仕方とか、そういうことは教えてくれてるけど、機械の使い方やとか機械の直し方とか、そんなの誰も教えてくれないですよ。働いてから、実技のそこを、自分でとにかくやり始めた。

ー自由を得るために、自ら険しい道を選んだんですね。

意外と好きでやっとった。工場の中で、ほぼ3年は機械なぶって(いじって)たからね。整経したり織りつけしたり、組織組んだり、大抵のことは知っとるわ。そこから織物の設計に入ってって、色んな生地を作り始めた。その頃、日本はいわゆるDCブームに入ってったんかな。山本耀司さんなんかも来てて。まだ「誰これ?」って、そんな感じやったもん。サンプルが織り上がるまで、あの資料室でやっとってもらったらいいわって。今から思ったら、耀司さんを、あんなとこに放り込んでいいんかって(笑)。

「DC全盛の頃から、ガーッと色んなことやり始めて、何となく時代に波長が合ってってまったんやね。時代の寵児達の仕事を、けっこうあちこちから頼まれてやってました。そこで一気に、わしが変わっていった。」


ー耀司さんも意外と楽しんでくれたのでは(笑)。耀司さんは、どうやっていらしたんですか?

人の紹介で、誰かが連れてきた。黒い丸いメガネはめてさ、カッパコートみたいなの着てさ。

ー昔のデザイナーは産地に足しげく通ったと聞きます。

DCデザイナーは、オリジナルのものをいかに作るかって真剣に考えてたから、だからよく来てくれたのかな。とにかく変なことを一生懸命やっとった(笑)。それに合わせて自分も色んな事を経験したから、今やれてるっていうのは事実だと思う。

ー尾州にはションヘル織機がありますよね。けれど実は、その織機が無いと特定の生地が織れない、というわけではなく、実は、どの織機でも何でも織れるんだよ、要は使う人の知恵なんだと、教えてくれたかたがいました。

尾州でもションヘルだ何だって言ってるけど、何でもいいんやよって。別に織機は何でもいいんやけど、ションヘルはなぶりやすいって言ってるだけの話。たとえば新しい機械をガンガン入れたとしても、(会社の)中の人にクリエイションさせる訓練をさせていかないと、結局は、よその機屋さんの工賃屋さんになっちゃう。ものづくりは訓練が必要だと思う。

ーお話しを伺うと、インハウスのテキスタイルデザイナーがファッションデザイナー達と対等にあることが、産地の生き残りの大切なポイントのように思います。

自分は、DC全盛の頃から、ガーッと色んなことやり始めて、何となく時代に波長が合ってってまったんやね。当時ビギ(BIGI)の菊池武夫さんとか、そういう時代の寵児達の仕事を、けっこうあちこちから頼まれてやってました。そこで一気に、わしが変わっていった。

ーテクニックはもちろん、意識も変わっていったわけですね?

それまでは、問屋さんの言うことを聞いてやってるだけ。だから儲からない。生地が残される、残る。いいことちょっとも無いわけや。

ー当時、工場にはションヘル織機は何台あったのですか?

11台。すごいでしょ? それをひとりでなぶってくんやからさ。朝7時頃から夜9時頃まで。だから覚えるの早いですよ。それだけの織機を同時進行で一気にやってくわけやから。

ー20歳くらいですよね?

そうそう。もう50年前ですよ。

ー世界に羽ばたいて行こうとしているデザイナー達と、ダイレクトにモノづくりをする経験は、ものすごく貴重ですね。

いろいろ勉強させてもらった。けど、ちょうど40歳になったときに、会社を辞めることになって。辞めて2ヶ月くらいの時に電話がかかってきてさ、「足立さん、韓国行ってくれへん?」って話になってさ、技術指導で行ってくれって。3年くらい行ったり来たりしたな。

ーそこでは織りのテクニックもそうですが、布作りの発想や設計も教えたのですか?

発想も教えなならんもんで、それもやりながら。それやり始めた頃に色んなところで、フリーで契約してくれって話が来てさ。契約するだけならしよかって、3社くらいしたかな。設計だけやる。それが90年代。それで、個人でやっとってもってことで、今の会社(有限会社カナーレ)にした。

ーカナーレが「織機を持たない、テキスタイルの企画制作をする会社」になったのは、そういう経緯だったんですね。

それで、それを色んなとこでやっとったら、結局ね、みんな辞めてくわけよ。設計やってた会社が。

ーデザイナーのリクエストを超える、フレッシュな生地が生み出せなかったということでしょうか?

そういうこともあって、ここも、あそこも辞めてまったっていう話になってくると、そこに仕事を依頼していたお客さんが「わしらどうしたらいいの?」ってなって。仕方ないから、俺が作るからって。それで自分で作るようになってまったがね。設計して、糸も仕入れて、とにかく何もかもひとりでやって。オーダーの入った生地は、協力してくれる5つの工場さんに出して、一緒に作っていく。

ーそういう人はあまりいないんですよね?

ほとんどおらへんな。だけどそうでもしないと、みんなこの仕事を辞めてってまう。どうしたらいいんだろうって感じ。そうやってずっとやってきたけど、ある日突然わしがよ、問題を抱えてまったわけや。その問題っていうのは、生地は海外にも売ってるじゃないですか、その仕事で、数億円っていう、大きな借金を抱えてまって。海外の取引先が「こんなもの使っちゃあかん」ってものを、染色屋さんが使ってたんやね。昨日までよかったものが今日からだめになった。でも書類には「JIS試験を取ってくれ」って書いてあるだけ。そんな払えるわけないよって、ほぼ開き直っとったけど。今でも返済してる。関係者みんなで払っとる。そういう大きなものを抱えてしまったわけや。

ー海外では、環境問題に取り組むことが必須となっていて、以前にも増して注意しないといけないのは知っていましたが、現実は突然やってきたんですね。日本の生地の良さを、どんどん海外にアピールしたいけれど、半面そういう恐さもある。そういう専門的なことをトータルでジャッジしてくれる存在というか、機関が必要な気がします。足立さん含め、個人力で何とか続いている産地全体の問題提起のようにも感じます。

恐れとってもしゃあねえって。起きるんやって、こういうことは。別に払えるだけ払やいいやんって。払いたくはないけど(笑)。そういうこともあるってことも知ってかんといかんよって思って、今話している。自分の知らないところで起きてってまう。でも実は見本の時から分かっとるじゃん、何でその時に言ってくれへんのって。

ーその基準は世界共通なんですか?

アゾ染料(皮膚の細菌や酵素により還元分解され、アゾ染料からアミンが生成。 生成されるアミンは、もとになるアゾ染料によって決まり、ごく一部のアミンは有害性が指摘されている)に関する基準が、日本も世界的な基準になってきた。ちょうどそのタイミングやった。世界はもっと厳しいわけ。でも生地を発注する前にアゾ染料を確認するためのアゾ試験をするんだったら、残念やけど、この値段では出来ないって話を、前もってしないといかん。みんなそれを言わずに、誰かに任せきっりでそのままでいたら、これから商売が成り立たへんよって。それは言った方がいいなって思ってさ。

この前も、海外からの問合せで、聞いたことがないような薬品が入っとるって言ってきた。その薬品は何や言ったら、ウールのわたを洗う時に入るもの。そんなん、どのウールでもほぼ入ってる、だけど今はそれがだめって言うところが出てきた。じゃあ何で洗うんかって話になってくる。だから、心配だったら自分で調べてくださいって、はっきり言ってある。知らないことまで何でも「あなたの責任です。あなたが調べなさい」って言うなら、それはちょっとおかしいんじゃないかなって。それじゃあ何も出来なくなる。

あるときは、海外から色んな人がみえて、カットジャカードの生地を見て「これは(糸は)抜けますか?」って言う。だから「カットしてあるやつは全部抜けますから」って言ってある(笑)。それがだめならやめておいてくださいって。それははっきり言わないと。

ー持続可能で有害ではない世界に向けての取り組みは、海外はすでに進んでいて、日本も早急な対応が必要なのかもしれませんが、その途中段階で起きているリアルな問題を知らないと、上っ面だけで偉そうなことを口にすることはできないのだと、足立さんのお話しを聞いて思いました。
ちょっと話を変えてもよろしいですか? 尾州産地はウールの産地として有名ですが、その中にあって、足立さんの作風はある意味異端だと、他の職人さんに聞いたことがあります。どういうことかと聞いたら、足立さんが使っているのは「あれは糸じゃなくて、資材だ」と。誉め言葉ですよ! けれどそういうチャレンジをしたことで、ウールの産地に、春夏にも仕事が来るといった状況を創り出しましたよね? その発想の転換というか、考え方は、何がきっかけだったんですか?

いろんな素材使ってるっていうのは、DCブームの頃からかな。みんなが変化をつけようとする。違いをどう出すかっていう部分で、一番最初にようけ使ったのはね、ジュート(黄麻)なんや。ジュートをいっぱい使ったんですよ。「何するのこれ?」って言われながら。いや、ウールと一緒に織るんですよって。それでチェック生地を作ってた。どうやって作ったかって言うと、当時いた郡上紡績なら、紡績もできるし、染色工場もある。だからここで染めたらいいやんってことで。

ー会社員の時代に遡るんですね!

そう、会社員だった時。せっかく工場に全部の工程設備が揃ってるんだからやろうと。仕事がないって言ってないで、ないんやったら仕事作ればいいっていうのがわしの考え方なんよ。発想も変えて「なぜ、それしかだめって言うの?」って。紡績工場での染色って、通常は糸の前の段階の“わた”を染めてるんですよ。“わた”が染まるんやったら織物でも染まるやないか? そしたら「ムラになる」とか言う。「とにかくいいから、いっぺん染めてみてくれ」って言って(笑)。やり始めたら、こんなことできるんや!とか言い出して。これ染まるんやったらTシャツ染めようかって、Tシャツ染めてたんや。

ー可能性をバッチリ切り拓きましたね。

それで、製品染め、どえりゃあ取ったんや。

「生地作ってても、誰もが出来ないっていうところを探す。やっぱりモノを作る人になるんやったら、ありえないようなことを考えないと。これどうやって作ってあるんやろ?って考えさせたい。」


ーじゃあデザイナーからのリクエストというより、足立さん個人の創意工夫っていうか......

リクエスト全然されてへん。でも、いろんな人と付き合ってると、もっと変化した生地を求めてくる。次から次へ出してけばいいじゃんって感覚で、そんなばかなこと、ようやっとるなってことを、へっちゃらでやっとった。二重織ってあるじゃない? 普通は接結を使って2枚を1枚の布に仕立てるけれど、接結しなければ、1回で2枚織れちゃうじゃんって!それを工場で染めやいいじゃん。くしゃくしゃっとして。くしゃくしゃがいいんやって。くしゃくしゃにしてくれって言ってくる人もおるんやから。そんな感じでできた布のほうが、意外と売れてってまうんや。その頃、見たことがないものは大抵売れてまうんや。本当に。

ー足立さんが作った生地のサンプルが、巡り巡って、誰も同じものが作れなくて、結局、足立さんのところに戻ってくるというエピソードが忘れられないです。残念なことですが、より安く作ってくれるところをサンプルは巡っていくわけですね?

こういう生地を作りたいと、コピーで送ってくるんです。結局あっちこち回ってから、これ足立さんとこの?って来る。「実際にものを見てないから分からへんけど、うちのじゃねえかなと思うよ」って。それで営業が持ってみえて「どっから持ってきたの?」って聞いたら、まわり回って、結局、みんなに「出来ん!」て言われたって。営業だけじゃなくて、お客さんが来ても「サンプルちょうだい」って持ってく人がいるから、サンプルが、どの経緯でどこ行ってるかなんて、分からせんでかんわ。

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自分が作る生地は「何でこんな高いんだこれ」っていうところがあるのかもしれない。最近で1番面白いのがね、あの裂織(さきおり)の生地がそうなんや。1mで6,500円はするぞって話をするじゃないですか。すると高いってみんな言う。そりゃ高いに。この中にデニムがどんだけ入ってると思われるのって。生地が重くなるもんで、1反25mで作ってるんですよ。25mの生地を織るために、50mの反物が2反ちょっと必要になる。でも「デニムだけあんたのとこで調達してきたら、この金額でできますよ」って言ったると「え、そんな安いの?」って。残っとる生地とか、事故反でもいいんやし、そういったもんを裂いて糸に使うなら、そんなに高くならないって話をするんですよ。サンプル通りのものを全部やろうとするから高くなるって話。

ーサンプル反の見方とか、そこからアレンジしてもいいんだよ!という話ですね。そういった発想を、よりフレキシブルに出来る人が足立さんと組んだら楽しい。

サンプルを見ただけで、ここをあれにしたら面白いだろうなっていう人が、やっぱりいいね。

ー足立さんが以前に作られた生地で、表裏のどちらも大きな畝のある生地があって、「これはどうやって使うんですか?」って聞いたら、「それは知らん!」って(笑)。何かを残す人というのは、どこか超越してる...と思いました。

生地作ってても、誰もが出来ないっていうところを探す。簡単に出来るよってなったら、やる意味ねえなって。やっぱりモノを作る人になるんやったら、ありえないようなことを考えないと。「これどうやって作ってあるんやろ?」って考えさせたい。

ー人が想像したものを現実化させるには、どういう訓練が必要なんでしょうか?

いろんな学生さんやらさ、デザイナーとかの話聞いてて、想像出来たことは大抵かたちに出来る。ところが、何言っとるか全然分からへんやんっていう時あるんですよ(笑)。それでも、話して、話して、そういうことやったんやって頭ん中で想像できたら、絶対にかたちに出来る。

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ー世界中との商売が始まったのはいつ頃ですか?

90年代です。

「産地が継続していくために、何とか道を開こうとしとるのが輸出なんですよ、やっぱり。海外へどう出すかっていう部分だとわしは思っとる。」


ー世界に向けてチャレンジして、どういう変化がおきましたか?

海外の人達は、国内が認めんものを、すぐ認める。国内は認めてくれへんのに、向こうの方が先に認める。国内は、海外のあそこが使ってるよって言うと使う。これどこのって言われて、すでに取引が決まっている海外のブランド名を言う。昨日まで、こんなバリバリしたの持ってくるなって言っとるような人でも、それは使えるってなる。

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ボンボンモールって玉のついた糸があるじゃないですか。あれだけでは織れんもんで、どうやったら織れるかなと思ったときも、その糸をベタ(全面)に使うんじゃなくて、隣に1本違う糸を入れて、比較的ガサガサに織ってみた。融着ポリエステルって、エアコンのフィルターの中に使ってある素材を使って。キュッと熱かけると固まるやつ。それを使って3回くらいテストして、形になった。結果、海外から3,000mくらい注文が来た。でも国内じゃ売れへんのだよ。「こんな痛いもん売れん、だめ」って。でも、またそこで海外のブランド名を言うと、使い始める。そういうの、何でかなと思う。最終的には、結構いろんなとこが使ってくれたよ。

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ー誰かのお墨付きがそこまで有効とは。でも海外との関係は、足立さんのクリエイションを活性化させて、それがまた次の創作の原動力になるんですね。

そうですね。やっぱりね、いろんなことやってると、今使えんでも、何となく頭に残っとると、いつか必ず使える。だから常日頃から、考え続けることと、いつでも取り出せるようにアイデアを保存しておくことが大切やね。

ー足立さんの場合、生地を考えるとき、一番最初に何をするんですか?

考えるときは、組織を作ろうとする。マス目の中に、こことここにこうやって入れて、どうやったらここに入るやろ、とかさ。一生懸命組織をなぶりながら考えていく。組織作るのは学校で習ったこと。その授業はめちゃくちゃ好きだった。

ー重層的な織り生地を平面の図面に落とし込むには、訓練が必要ですよね?

つい最近、雑巾をモデルに作った生地がある。雑巾ってパッチワークみたいなもんじゃないですか。数枚の生地を重ねて、ステッチで縫い止めてある。それをひとつのものとして表現した織物が欲しいってリクエスト。どうするかというと、最初に、いくつかの層に分けて考えるんです。服にしようと思ったら1番下の層が抜けてたらだめでしょって。だから1番下は1枚の生地にする。その上に何か破けとるようなスカスカみたいな生地を乗せたい。じゃあスカスカはどうやって作る? 水ビ(水溶性ビニロン)入れて透かそかとか。それで後から水ビを溶かしちゃう。一番上の破けたゾロゾロとしたやつはどうしよ言ったら、そらもう手作業で切るよりしゃあないやろって。その3枚をステッチのように上から全部繋いじゃうっていう。そうすれば雑巾のような生地も簡単に出来るよって話をして。まとめて考えると分からへんけど、1枚ずつに分解してまったらいいだけ。

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ーこれからファッションデザイナーを目指したいと思った時に、生地について、どのくらいのことを知っていて欲しいですか?

逆に何も知らん方がいいんじゃないかな。中途半端な、どっかで聞いたのかなってことを言ってこられると、だったらあそこ行って作った方が早いにって話になってきちゃう。だから若い人が本当に作りたいと思ったら、勝手なこと言って、とにかく作って欲しいって言った方が、そこは自分も勉強になると思うよ。自分が作りたいものを作りたいって言った方がいい。そっちの方が楽しいし、作りがいもある。

ー壮大な質問かもしれないですが、尾州産地のこれからと日本の産地のこれから、どうしていったらいいとお考えですか?

はっきり言って尾州産地がどうなってくかなんて、わしらでも困ったなっていうのが現実。このまま行くとどうなる? 整理工場が一番ポイントなんよ。やっぱり設備が大きいじゃないですか。あれを維持するっていうのが難しい。紡績も然り。紡績だってどんどん無くなってってる。どこかで歪みができた時にガタってくるんじゃないかなっていう恐れを抱いてる。

ーつまり産地全体のサイズ感が小さくなれば生き残れる、ということでも無いのですよね?

その通りです。サイズが小さくなって生き残っていけるんだったらいいよ。だけど、本当に小さくなると無くなっちゃうよって。ある日突然。そこが一番心配。

ーそれってどうしたらいいんですかね?

産地が継続していくために、何とか道を開こうとしとるのが輸出なんですよ、やっぱり。海外へどう出すかっていう部分だとわしは思っとる。

ー産地の垣根を越えてオールジャパンとして協力していけば、この状態を何とか乗り越えられるのではないかと勝手にイメージしていたときもありましたが、なんと、もうとっくにそうせざるを得ない状況だと聞きました。

尾州の整理工場も、今は日本中から仕事を受けてる。受けざるをえない。どの産地も、仕事がないんやからそれだけ。結果、オールジャパンになってっちゃう。

「実は今、工房を作ってる。展示会場とか、コミュニティスペースみたいな機能を持たせて、誰が来てもここで布作りの体験ができるようにしたらいいと思って。そうやって開放したスペースがあったら、小学生でも誰でも来ていいぞっていう。」


ー産地の若手を育てていくということについてはどうお考えですか? たとえば西脇産地(兵庫県)には県外から産地で働く人を募って、お互いに適正かどうかを見分けるための、一定期間のサポートシステムがありますよね? 自然発生的にできた、彼らが日々集うための場所もあったりして、決して一人で思い悩むことも無い状況があります。

西脇のやり方が尾州に合うかどうかは分からんが、若手を育てるための一つの成功例として参考にはなるな。わしがアトリエを間借りしている小塚毛織さんのとこにも若い社員が中心となって取り組んで、とうとうエイク(EYCK)いうファクトリーブランドを始めてやね。本当にえらいもんやと思って感心するもん。

実は今、工房を作ってる。展示場とか、コミュニティスペースみたいな機能を持たせて、誰が来てもここで布作りの体験ができるようにしたらいいと思って。エアコンもつけて、そこにションヘル織機も入れようと思っとる。他で余った生地を全部持ってきて、それを作り変えて行くわけや。みんなで使えるような場になってくれたら一番いい。そうやって開放したスペースがあったら、小学生でも誰でも来ていいぞっていう、それくらいのことにした方がいいってわしは言ってる。

ー未来の産地を担う人への教育とか、好奇心を刺激する場としてのスペース作りにも、創意工夫が大切と思います。高価なものや華美である必要はなくて、実験が出来る場があったらすごくいい!

そうなんです、創意工夫。わしの通っとった高校の校訓が「創意工夫」。さっきも言ったけど、今はファッションの高校はあっても、生地作ったり、糸作ったり、要するに産地に根付いたことを学べる科が全部なくなっちゃった。それで困って、最近は、ファッションセンター(FDC:一宮地場産業ファッションデザインセンター)が、中核人材育成事業っていうのをやり始めた。それで、できるだけ繊維に携わった年寄り達を集めて、若い世代に引き継いでいってくれって言われている。

ー足立さんは、岐阜にあるテキスタイルマテリアルセンター(以下、マテセン)や、EYKEのショップがあるリテイル(Re-TAiL)といった場所でも、トークショーや講義をされていますよね?

マテセンでも学生さんに講義したりして、高校生の無理難題に答えて生地作ったりするけど、ようこんなこと考えるなと思うようなことへっちゃらで言うから(笑)。その方が面白い。楽しいよ。リテイルは一宮駅前にある、昔の繊維組合の事務所。今はショップや工房が入っている。つい先日は、イベントの中でちょっと話をして欲しいと言われて、慌てて準備した(笑)。いつも話をする時、最初に、ミナ ペルホネン(minä perhonen)さんで作った、右側と左側が違う柄のツイードのことを話すんです。どうしてこんなものが織れるかっていう話は、来てくれるんだったらいろいろできるから。

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ミナ ペルホネンの左右違う柄のテキスタイル

ー最後に、今、一番伝えたいことは何ですか?

とにかく、さっき話した工房を、誰でも来られるようにしたいって思っとる。若いうちに、ちょっとでも見たり、経験しておくと違うって思うから。

足立 聖 KIYOSHI ADACHI
1948年12月8日。岐阜県生まれ。岐阜工業高校 紡織科卒業。約20年、産地にて会社員として生地作りに関わり、1997年にカナーレを立ち上げ。織機を持たず、テキスタイルの企画会社として、尾州産地内の5社の工場と連携して生地を作る。他社が真似の出来ない生地作りがモットー。現在、テキスタイルに興味のある全ての人を迎える場を制作中。

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