「卒論」に思うこと

卒論提出シーズンです。
うちのゼミ生も、何とかかんとか、全員無事に提出できました。

ほっとするのもつかの間、現3年生が、来たる4年次に向けて卒論のテーマ選びに取りかかっていますので、言っている間に次のターンがやってきます。

私のゼミは「古典文学・古典語・古典文化ゼミ」を標榜していますが、基本的には「好きなこと・1年間モチベーションを保てるテーマを選びなさい」と言っています。私は研究は広い意味ではオタ活だと思っているので(真面目な話)、卒研に取り組む1年間は、「自分が熱中して調べられるテーマを、とことん突き詰める時間」にして欲しいと切に願っています。

もちろん、卒論ですから、「研究」として成り立つ必要はありますが、研究職に就くわけではない学生さんにとって、「秀逸な研究論文」を仕上げることが、必ずしも有益であるとは限らないと思うようになりました。本当に「研究」として成り立たせるためには、厳しいお作法やルールが大量にあります。それは当然大事なことですし、最低限守るべきことは守らなければなりません。けれど、ガチガチな縛りの中で、あれダメこれダメと言われつつ、窮屈な調査と物書きに終始する1年になるよりは、多少型から外れていてもいいから、思いっきり好きなテーマの沼で溺れ、溺れつつ泳ぎ、自分なりの成長と成果を実感できる1年にしてほしい、と思います。

これには批判もあることでしょうが、あえてこのような方針にしているのは、「好き」を失った研究ほど無味乾燥なものはない、と自己を振り返って痛感するからです。

私自身、これまで何度も「好き」を失いかけました。上代文学に興味が持てない、歌を読んでも何の感動も覚えない、他の人の論文を読んでもまるで頭に入ってこない。それでも、論文〆切や研究発表の日は容赦なくやってくる。モチベーションが全く上がらないまま、まがりなりに蓄積したスキルと気合いだけで乗り切ったことも、実は一度や二度ではありません。

強迫感と義務感だけで行う研究は、大変に空しいものでした。

仕上がったものは、表面上はなんとか形にはなっていたでしょう。
しかし、調べたい・書きたいという内的欲求のない発表・論文に、何の意味があるでしょうか。

ですので、学生には、荒削りでもいいから、考える楽しみ・調べる楽しみを存分に知り、1年かけて、自分にしかできない成果物を造り出す達成感を味わってほしいのです。

次期卒論生の合言葉は、「わくわく」。
壮大で、わくわくポイント満載のテーマが、続々集まって来ています。
今からとても楽しみです。


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