えん

可哀想な顔をする人が羨ましいだけ。

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可哀想な顔をする人が羨ましいだけ。

最近の記事

きっともう無理なひとたち

最近はやりたいことがたくさんあって、活力が溢れている。 その代わり、私が悲しい時にやさしくしてもらった悲しい顔をするのが上手な人たちへの興味がごっそりなくなってしまった。 活力が戻る少し前は嫌気がさして、関わると嫌いになってしまうのが怖くて見ないようにしていた。 「私は今他人とのかかわりをお休みしているだけ」と言い聞かせて触れないようにしていたが、 やりたいことをできるくらいにモチベーションが回復してしまった今、自分の辛い悲しいを他人に見せびらかすという行為は、たとえかけが

    • 全員しね~!という穏やかな気持ち

      • 弱者性アピール

        自分の弱者性をアピールしている奴らが嫌いだ。 出自や環境、性質のせいにして誰かからの慰めや同情を搾取して満足げな顔して飢えているのが気持ち悪い。 私だって自分の弱いところを理解してほしい気持ちはある。 環境や性質のせいにしてみたこともある。 でも、私がそうしてみたときはいつだって煙たがられたし、何も満たされないし、人に期待しないようにしている。 たまにバランスが崩れるけど。 私が怖い人々は、私よりも遥かに上手に自分の弱者性をアピールし、 私よりも遥かに上手に誰かからの慰め

        • ただの吐き出し

          こんなに逃げ出したいの私だけ?ただの無責任で無気力で怠け者の健常者ですが。 あなたたちはネームドの症状があるのに仕事を頑張ろうとして大切な人がいてえらいですね。 健康な体を持ち、ネームドの症状もないくせに毎日逃げるように生きてる私は屑ですね。 名前のある症状がないのでいつも強い側だねわたし。 健康だからどんな思想を持ってても心理状態でも、健康だから、か弱い皆さんよりも前向きに頑張らなくちゃいけないね、 だって歩けるし、呼吸できるし、手が動きますからね、 どんなに辛

        きっともう無理なひとたち

          「くれた」が怖い

          人付き合いをする中で人の言動を受け取ったり、人になにかしたりするのは普通のことだが、 こちらは業務的に行ったことを「いつも支えてくれた」「そばにいてくれた」みたいに大げさに感謝されるのが怖い。 次を期待されるのが怖い? 拡大解釈されているのが怖い? ヒーローに仕立て上げられるのが怖い? こちらの意図が汲まれていないのが怖い? 正体は分からないが、とにかく怖い。 「気持ちを察して行動してくれる」というのをしばしば優しさだとか気づかいだとか言われるが、 私は「気持ちを察し」

          「くれた」が怖い

          可哀想カード

          可哀想カードをふんだんに使う人が憎らしい 自分は可哀想カードを切れない 家族のことも恋愛のことも心身のことも「人事部に報告すべきことだな」というレベルにならない限りめったに他人に話すことはない そうしているせいで、自分の基準としている「人事部に報告すべきこと」レベルに共有しておいたほうがいいことであっても、ふだん可哀想カードをたくさん使っている人が発言元だとなんだか憎らしく思ってしまう なんて性悪なんだ。

          可哀想カード

          全人類にうっすら嫌われている

          「私は全人類にうっすらと嫌われている」と度々思うことがある。 別に、 「私のことを好意的に思う人は1ミリもいない」 とか 「今現在周囲の人から攻撃されている」 というわけではない。 「うっすら嫌われている」というのは、 ふと「反応に困る」と思わせたんだろうなという瞬間があったり、 「おもんな。」と思われたり、 私がはしゃぐ姿が滑稽だったり、 「私のことを大好きだと伝えてくれる人でも、きっとあの子と私が対立したらあの子の味方になるんだろうな」と感じるということだ。 こんな

          全人類にうっすら嫌われている

          診断書のないメンヘラはただの免罪符だ。 だってそうじゃないと、どこにも問題のルーツが見当たらないただの出来損ないメンタルの私がうかばれない。 メンヘラって言葉を便利にラベルにして気遣いを搾取しようとしないでほしい。

          診断書のないメンヘラはただの免罪符だ。 だってそうじゃないと、どこにも問題のルーツが見当たらないただの出来損ないメンタルの私がうかばれない。 メンヘラって言葉を便利にラベルにして気遣いを搾取しようとしないでほしい。

          たとえSNSでも他人に見える前提の場所で自分のことを「繊細」「弱い」「無力」って言えるだけ、強いよ

          たとえSNSでも他人に見える前提の場所で自分のことを「繊細」「弱い」「無力」って言えるだけ、強いよ

          加害者側の思想の傾向分析のネット記事やプチバズり投稿が回ってくる度に、いつも被害者側のコメントや引用しか見かけない。バイアスもあるだろうが。 加害思想を認識して抱えて、なんとか目を逸らして無害に生きる人はいないの?私だけがそうなの?皆が被害者面うまいだけ?SNSって勧善懲悪なの?

          加害者側の思想の傾向分析のネット記事やプチバズり投稿が回ってくる度に、いつも被害者側のコメントや引用しか見かけない。バイアスもあるだろうが。 加害思想を認識して抱えて、なんとか目を逸らして無害に生きる人はいないの?私だけがそうなの?皆が被害者面うまいだけ?SNSって勧善懲悪なの?

          誰にも聞かれない声明

          誰にも言わない、言えないし別に言わなくていい後ろ暗い攻撃的な気持ちを書きなぐってきた。 わたしは趣味で曲を書いて歌ったりしている。 リズムや言葉で遊ぶような曲や、オマージュのような曲や、いわゆる「お気持ち表明」みたいな曲も作った。 お気持ち表明曲はnoteとおなじく、ダイレクトに相手に伝わってほしくはないが自分の中で無視できない思想や感情を、「曲なら許されるだろう」と表現の自由に甘えさせてもらって形にしているものだ。 形にできた曲も、歌詞だけ書きなぐって頭の中でメロディを

          誰にも聞かれない声明

          感情泥棒

          「共感とは強奪だ」 たまにそう思うことがある。 別にすべての事柄に対してそう考えているわけではないが。 あくまで自分自身の心証から感じたことなので、書き出して整理をしたい。 本来の言葉の意味としては「共に感じる」そのままのとおりだ。 しかし最近、共感の先を勝手に考えてしまうようになった。 「共感」と聞くと、何に対する共感が思い浮かぶだろうか。 日常のあるあるに共感、歌を聞いて共感、キャラクターに共感、悩みに共感…… 「共感」はこの世界には溢れていて、沢山の人が「共感」を

          感情泥棒

          悲しみに敏感な嫉妬心

          「マウント」を取られていると感じることは人によって日常茶飯事だ。 「マウント」にはさまざまな種類があるが、とりわけ私は「悲しみマウント」に敏感である。 どれくらい敏感であるかというと、発言者は絶対にマウントを取ろうとしているわけではないことが分かり切っているような小さな出来事、 例えば「疲れた」「寂しい」「寝られない」などの日常の中の小さな弱音に対してなんだか腹を立ててしまう程度に敏感なのである。 平たく言えば他人の悲しみに対して被害妄想が強い。 別に育った環境云々は関係

          悲しみに敏感な嫉妬心

          前向きアレルギー

          最近私は「前向き」と褒められることに嫌気がさしている。 —私はくよくよするのが嫌いだった。 くよくよされると腹が立つからだ。 寄り添えない自分が悪者になるからだ。 悲しんでいる人に優しく接せられない無神経なやつだからだ。 だから強くあろうとしてきた。 頑張ってたんだねって言ってもらえて嬉しかった。 本当は弱い私を分かってもらえた気がした。 そうすることで弱い人達に寄り添える気がした。 しかし人間とは欲深いもので、これまで「我慢してきた」と思っていた分、一気に崩れた。 「

          前向きアレルギー