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雲南日本商工会通信2021年9月号「編集後記」

 いま中国では「共同富裕」が叫ばれ、すでに様々な政策が実行されています。
 その結果、IT産業、ゲーム産業、教育産業、そして不動産業が大きな影響を受け、経済成長にブレーキがかかる懸念が生まれ、国内外の投資家が中国への投資に躊躇するようになっています。
 巷では「政治闘争の一環だ」との声や、「文化大革命のような悪夢の始まりだ」との声もあります。いずれにせよ、あまりにも性急な方向転換は、国家を揺るがしかねないリスクをはらみます。
 中国共産党の存在意義を担保するものだったはずの経済成長に傷をつけてまで、なぜ「共同富裕」を推し進めるのでしょうか。
 日本では中国を「崩壊ありき」で評論する人が多いので、ここではあえてリスペクト目線で考えてみたいと思います。
 新興国が先進国に移行していくなかで、「量ではなく質へ」、「GDPからGNH(国民総幸福量)へ」という流れが生まれます。もし中国の「共同富裕」も、それに沿った文脈で行われているとしたらどうでしょうか。
 習さんは「共同富裕を実現させれば、西欧のいう民主主義よりも『中国の特色ある社会主義』のほうが上だと主張できる」と考えているのかもしれません。中国では聡明なビジョンとプラン、そして実行力さえあれば、(時間をかけてコンセンサスを図らなくてはならない民主国家とは異なり)一気に変革することができます。
 そしてそれがうまくいけば、中国の国民も「コロナの頃から薄々思っていたけど、やっぱりアメリカより中国のほうが圧倒的に上だぜ!」と思うことでしょう。
 つまり、中国共産党の存在意義を担保するものを「経済成長」から「アメリカと比べて幸せな国」へとシフトすることが、「共同富裕」の目的だと考えられるのです。
 とはいえ「量から質へ」の変換は、そう簡単なことではありません。人の意識も変えていく必要があるからです。たとえば「お金持ちになっても意味ないよ。ほら、道端に咲いているこの花を見なよ。素敵だろ」「本当ね、見ているだけで幸せな気持ちになれるもの~」みたいな感覚になれるかどうかということであり、「量から質へ」「GNH」はそのような人々が増えて初めて成立するものです。現状を言えば、「公園1903」に住む金持ちの子弟だったら少しは想像できるけど、農村部に想いを馳せれば、その実現はとうてい先のような気がします。
 ところが、「心が変われば行動も変わる」という言葉がありますが、逆もまた真なり。徹底した監視と厳罰で完全に管理すれば、人々の行動が変わり、やがて意識も変わるのです(悪い言い方をすれば洗脳ですけど)。
 シンガポールのような政体は、小規模の都市国家だからこそできると言われていましたが、超管理国家となった中国が「デカくて明るい北朝鮮」を作ることも、あながち不可能な話ではありません。
 とはいえ、すでに述べたように、「聡明なビジョンとプラン、そして実行力」が前提です。トップダウン型の政治にはメリットだけでなくデメリットもあるんだし、企業から自由な活動を奪うと、起業家精神やアニマルスピリットが失われかねません。
 そう考えると、凡人には前途多難に見えます。しかし習さんは非凡な指導者です。「見せてもらおうか、その実力とやらを」という感じで今後を見守りたいと思います。

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