トラウマは「単なる」思考のクセ

「単なる」という言葉の力を借りて、
トラウマにどうにかさよならを告げる。

私には妙にこだわりや、不整合や矛盾を見つけようとしてしまう
脳の特性があるようで
私生活でもちょっとはみ出している部分があるとか、色が違っている個体があるとか、この人の行動と発言に矛盾はないかとか
倫理規則から外れていないかとか、そういう目線で物事や人を捉えようとするとか、いつも無意識に判断をしていて、ずーっとくたびれる人生を送っている。ほんとうは、やりたかない。

頭の奥底の引き出しにしまった遠い過去の記憶や思い出に対する向き合い方も同じで、わざわざひっぱりだしてきては、普通や正常、幸せから外れてしまっていることはないか?と選別しては、落胆や失望、怒りという感情を呼び起こしている。
だから平凡で普通の楽しい記憶や思い出はあるはずなのに思い出すことはめったにない。
頭の奥の引き出しから取り出しては「辛かった、不幸だ」という
ラベリング作業を行い、その嫌な記憶からまずくてからい粉末みたいなものを生成して、心臓や脳みその溝に揉み込むみたいな作業を脳内で行っている。

そう。
ただ、そういうラベリングとか、もみこみみたいな「単なる」作業があたまの中で発生しているだけなのよね。
やらなくても良い粘土をこねこねしているみたいな。

だから、
もう過ぎ去った過去は今はもう「ない」のだから
ナシ。ナシ。

なんか、別に丁寧に向き合うってのはいらんっていう気もするし。
頭が良い人みたいに早く正確に把握して理解できれば
ああ、そうでっか。でサクサクっと終わる気もする。

思えば、ラベリング作業にも飽きてきた気もする。

結局、お金があって没頭できる楽しむ趣味があれば良いのよ
でもこれまた、遺伝子できめられた脳内物質のバランスにも依るわな。
もともと、幸福度を感じにくいタイプだっている。
ほんま、人生あほくさ。

そういえばさ、なんで、不幸な人を呼んでまたつらい過去をお思い出させて繰り返しお金を取るんだろう。普通に20万をぽんと渡して、好きなことしてきてごらん。で終わる気がするねんけどね。

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