見出し画像

自然の調和と人生

自然と非自然とは、人間が媒介しているかどうかで決まる。人間なしには形成し得なかった物体や現象のこと。本当は人間も自然なのだが、そういう風に区別されている。

蟻が作った塚は自然である。鳥が作った巣は自然である。ビーバーが作ったダムは自然である。しかし、人間が作った都市は自然ではないのか。あらゆる生命の中で人間は人間を特別視している。

蟻は塚なしで生きることが自然か。鳥は巣なしで生きることが自然か。ビーバーはダムなしで生きることが自然か。蟻は塚を作り、鳥は巣を作り、ビーバーはダムを作るのが自然ならば、人間が文明なしで生きることは自然か。人間は文明を作るのが自然か。

行為、非行為、何をするか、しないか、それ自体に倫理はない。その行為/非行為がある状況に適切な行為かどうかで倫理は生まれる。

人間は文明を作る自然である。果たして人間は自然から離れ、意志を持つことができる存在か。人間に意志があるなら、人間は自然だけの存在ではない。人間に意志がないなら、人間は自然である。人間は自然であるなら、行為なく、人間に倫理は求められず、人間の行為/非行為による文明は全てが自然である。人間に意志があるなら、人間は行為を自ら選択できる。

果たして究極何も分からないならば、開き直って生きるか、全方向に保険をかけて生きるか、何か一つに賭けて生きるか、どれが望ましいのだろうか。


自然を観て、空や雲や雨や雷や山や岩や海や川や草木や花や様々な生き物を観て、そこに心を感じないなら、詩の感性はない。詩の感性は神の心を感じ取る能力である。詩の感性を保留ばかりし、詩の感性をオカルトと見なす現代の風潮は、神の死、芸術の死、心の死である。

川のせせらぎ、木々のそよぎなどの自然現象の中に心を感じる詩の感性は、神と人が自然を通して繋がっていることを示す現象であり、人が自然に心を投影しているだけではない。これが分からないなら詩の感性はない。とはいえ、その感性は誰もが自然に持っている。それは非宗教的な感覚ではない。

言葉がトーンによって感情を変えるように、自然現象もトーンによって感情を変える。自然現象は自然の言葉であり、その言葉の背後には神の心が宿っている。

存在していることの不思議、存在の絶対性、自然から感じられる超越的な心、宇宙が生命を生み出した奇跡と意味の深淵。神様のいない世界の方が考えづらい。それでもこの感性を失ってしまっている人もいる。神様を信じられるのは賜物である。

私は父親は神様で、母親は宇宙で、自分たちはその子らというイメージを持っている。

産み出すことは苦しみであるが、産み出している時だけが生きている実感がする。苦しみは生き甲斐に不可欠である。産み出すことは生命の証である。産み出す力が尽きれば土に還る。

頑張れることは幸せである。私に向かって入ってくるものが私の内部で周り巡って私の外部へと出て行く。私は自然の中の散逸構造体である。自然の中の分散処理系である。私は心の内部に観念を産み出し、身体の外部に加工物を産み出す。自然が生命なしには生み出せぬ加工物を。母なる宇宙(集中処理系)はその排泄物を喜ぶ。

吸っては吐き、食べては排泄し、生命は呼吸する。その度に母なる宇宙は色を変える。母の胎内で、無数の子らは蠢いて働き、母の色を変容させる。力の限り、生命は呼吸する。そして食べては排泄する。取り入れては加工物を産み出す。父母はお前の吐き出したものを喜ぶ。それは生命にしかなせぬ生産だからである。父母が望んだ故に生命(子)は誕生したのだから。


自己の為に生きることの虚しさを覚えること。自己などないと。人は自然であり、意識も行為も錯覚であると。肉体も意識もやがて朽ち果てる。我らは生命を預かり、預かったままに動き、生命を返す定め。所有物など何もない。我らは生まれながらの神への犠牲(供物)である。神様と宇宙に心身を捧げ、委ね、観照し、平穏に生きよう。

私がいなければ世界は調和を崩すだろう。君がいなければ世界は調和を崩すだろう。私の存在も君の存在も世界の必然。確率の偶然性は決して無秩序ではなく、統計的法則に則っている。確率の平均が現象界である。だから誰一人として必要なく生まれてきた生命はいない。すべての存在によって世界は調和を保っている。今は被造物が共々に苦しみを分かち合う時代。だが、その時代もやがては過ぎ去る。

自然の循環システムと回復速度に沿った形で生きること。怠惰を避けつつ過剰を避けること。怠けず、無理し過ぎず、自然と共に生きること。意識下では理性に基づいて生き、運命は神様に委ねること。意識下では理性を判断の頼りとしつつ、運命を変えられるのは絶対自由な神様だけだから、不安になったら神様が運命をご意志のままに導いて下さるという信頼を神様に祈る(念じる)こと。

私は犠牲であり、奴隷であり、皆に美味しく食べ尽くされれば、後は神様が良く計らって下さるだろう。何も持たず、何も求めず、全てを委ね、全てを捧げ、宿命の全てを受容して、苦楽を噛みしめて味わって、死ぬまで生き抜こう。

私は犠牲であり、奴隷であり、皆に食べ尽くされる身ではあるが、私は不自由なく生かされており、必要なものは全て与えられている。私は不幸なのではない。理法の清さと、神様の善良さを信頼しているから。楽しみと同じく、苦しみも悲しみも神様が与えてくれたものだから、味わい噛み締めよう。

苦しみは増えも減りもしない。ある苦しみを除けば別の苦しみが他からやってくる。私が安楽すれば、他人が苦しむ。苦しみは移動するだけで増減しない。苦しみ自体は人には無くせない。ならば、苦しみをある程度分かち合うことが、皆が苦しみ過ぎずに生きれる方法と言える。苦しみを除き過ぎず、受け過ぎずに。

周囲を少しでも安楽にさせたいなら、周囲の苦しみを私が一身に背負わなければならない。私に苦しみが集中している限りは、周囲はその分安楽に暮らせるだろう。しかし、事はそう簡単ではない。苦しみは他の外部から周囲に入り込み、結果的に周囲は前と変わらず苦しむ。だから無理して全体から苦しみを除こうとして、自己を破壊させるのは禁物である。

快苦は増減できないと心得よ。その総量は決まっている。我々が心配ることは快苦を公平に分配することだけ。快も苦も分かち合うことだけ。誰かが無理しても、一人楽しようとしても、それは成功しないし、長続きはしない。人は各々自分の荷を負うのだから。

すべてには波があるように、快苦にも波がある。時節がある。周りより苦しみを負う時期もあるし、周りより楽する時期もある。それが長く続く時も、短い時もある。それでもそれはやがては過ぎ去る。快を得、苦を除くことを無理に望むのではなく、与えられた快苦を味わえ。人は各々自分の荷を負うのだから。

富めば楽となり、能力を高めれば楽となり、人気があれば楽となり、環境を変えれば楽となり、信念を持てば楽となる、と思い違いをしてはならない。所有物によって苦楽は増減しない。その形が変容するだけ。いかなる状況にあれ、己の受け分を受け止め、苦楽を味わうなら、不平不満(怒り)は生じない。

過ぎた苦痛は取り除き、過ぎた安楽は求めるな。安楽も苦痛も皆で程よく分かち合え。苦痛が大きく感じる時は、形を変えた安楽も同じくらい今あることを感じ取り、癒されよ。安楽が大きく感じる時は、形を変えた苦痛も同じくらい今あることを感じ取り、冷静になれ。万物は調和を保っている。

貧しく苦しむ人々は、他の面では富んでおり、安楽を得よう。富んで楽する人々は、他の面では貧しく苦しみを得よう。苦楽は形を変えて調和を保っている。形はいずれ変容し、今の形は過ぎ去る。いかなる状況であれ、片面だけを見るのではなく、両面あることを見て、今の苦楽を味わえ。

世界は狂っている、世界は正常ではない、世界は偏っている、世界は不公正であると感じるなら、その感覚は半分正しいが完全ではない。世界が正常でなく、偏っているのにも意味がある。ただその意味が我らには見えない領域のものというだけである。すべては過ぎ去る。世界が永遠に狂ったままでいることもまたない。世界は調和を保っており、見えない領域も含めた世界全体はやがては調和を取り戻す。

神様がおられ、やがては世界は調和を取り戻すことを信じよう。計り知れない意味が目的を終えた、神の定めし時にはそうなると。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?