人生の虚無性を見つめる

今を楽しく生きようが虚しく生きようが宇宙がやがて無になるのなら同じことではないか…なぜこの現実を無視するのか?

人はこの妥当な現実を無視したくて、心が耐えられなくて、あらゆる宗教や実存哲学のようなものを作り出す。

宗教は、体感しなければ理解できないのだ、という根拠もないが否定もできない権力で人をその修練の道に拘束させつづける洗脳システムだ…

個体としてやがて死ぬこと、生きるには命を殺すしかないこと、神や魂は証明できないこと、この三重の苦しみが人生の現実ではないか…

みなこの苦痛から目を逸らしたいのではないか…

未来は分からないこと、無にならない可能性があること、この微々たる可能性がかすかな希望

自分を無にして社会の持続のために生きることが生きる意味なのかな?他者の幸せ=自分の幸せとなるような信念を持つこと。もし心から本当にそう思えたら煩悩はなくなるかも知れないのだが…

他者の幸福と自分の幸福はイコールでないとバランスは崩れる。他者の幸福が優位ならば、自分を捧げる人生は苦痛や不満を生むし、自分の幸福が優位ならば、自分よがりの快楽になってしまうからだ。

本質的な意味はないからあらゆる主体的な意味を作り出せる、と実存哲学を言う人がいる。でも、私にはそう言う人たちの多くは、意味がない現実を忘却することで、今の個人的な楽しみに没頭しているように見える。

ある意味で忘却は偉大だ。でも、だからこそ個人主義と短絡思考によって社会に歪みが生まれる。本当に他者の幸福=私の幸福と考えて、献身的に生きられる人はどれだけいるのだろう…

私の善性に失望する時、この理想もまた打ち砕かれる。

でも、私のこの人生に対する内心の疑問があることは現実だし、この疑問にひたすら真摯に取り組んでいくことに、私は生きる意味を見出せるのかも知れない。ならば、この疑問に取り組むことに全力を尽くせるように、環境も作り上げていかなくてはとも思う。

私みたいな小さな人間に何が分かると言うのか、という批判の声も聞こえてくるが、私は私の理解した範囲でしか世界を理解できないのだし、私は自分の問題でもあり、かつ社会の問題でもあるこの実存的な疑問に取り組む他ないのではないか。

分からないことを考えるのは無駄だと言う人もいる。でも少なくとも、ここまでのことは分からないことでないし、分かる範囲で人生の意味を考えなくてはならない。

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