キリスト教で最も大切なことは何か

はっきり申しましょう。キリスト教で最も大切なのは三位一体論などではありません。それはギリシア哲学の論争です。

一元論だろうと多元論だろうとそこには二元論が横たわっており、二元論は理解の根源であります。しかし全体をキッパリ分けることは不可能ですから、二元論の中には両義性が横たわります。父と子を分ける時、父と子を概念上キッパリ分けることは不可能だし、両者を媒介する霊も同時に暗示されるため、全体として一となります。

したがって、分析哲学的には三位一体論はまともな思考であるということを非三位一体論者は知る必要があります。とはいえ、これは概念的な哲学的分析であることと、聖書には子の従属性もまた記されていることを三位一体論者は知る必要があります。したがって、哲学的論争は不毛です。

私は非三位一体論もキリストの神性を否定してないことを知っています。そして三位一体論も非三位一体論も父なる神にキリストを通して聖霊をもって祈っていることを知っています。もはや不可知な部分の些細な論争や互いへの敵愾心は不毛であり、虚しいです。
 
では、キリスト教とは何ですか。『一番大切なのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません』。

そうです、神を全身全霊で愛することと、隣人を自分のように愛すること、です。この二つは不可分であり、一つであるのであって、これこそがキリスト教の神髄です。

質問します。もし貧しく愚かで罪深いあなたが救われるのだとしたら、どうして他の者を神が救ってくださらないと考えられるのですか。あなたは他の者とは異なり、他の者より優れているから救われたのですか。そうではないとの自覚が十分にあるのであれば、なぜ他の人を裁くことができるのですか。

私たちは罪深く、無知であり、善悪を知らず、誰も裁く権利もないのであれば、本当にそう思って唯一の神を崇めているのであれば、私たちが自分たちの解釈によって人を分け隔て、差別し、憎み合うことにどんな根拠があるのですか。私たちはみな同じ一つの神の被造物ではないですか。

あなたに敵対してくる人が現れるのは仕方ないとしても、あなたが他の人を敵対視するとは何事ですか。私たちに敵対してくる人がいたとしても、私たちには敵はいないはずです。私たちは敵同士であるべきではなく、仲間として諭し合い、考えつづけるべきであり、敵対視すること、すなわち分派を形成することは愛ではありません。

私たちはみな罪を犯します。しかし悔い改めるならゆるされます。それは他の人の罪を許すということです。悔い改めて、他の人の罪を許すならば、あなたの罪もゆるされます。それが悔い改めです。あなたが誰をも裁くことをやめて、すべての人を愛して受け入れるなら、あなたも裁かれることはないということです。

これは上辺の話でも理想論でもないはずです。神学的にもそのように見なし、実践しようとしないのであれば、その神学はキリスト教の精神にかなっているでしょうか。その神学は悔い改める必要があるのではないでしょうか。私たちは神学を信じるのではなく、唯一の神を信じているのだから、神学は悔い改めることができるはずです。

誰に賛成されなかったとしても、誰も受け入れてくれなかったとしても、私はそれを目指します。私には敵はおらず、私は人々を受け入れます。私を裁いてくる人も、何かに固執している人も、あらゆる思想信条を持っている人も、私にとっては同じ神の被造物としての仲間です。少なくともそれに向かって努力します。真理の答えは一つだとしても、答えを出してそれに固執することではなく、色々な考えがあることを受け止めて、一緒に仲間として考えつづけることが信仰だと思うからです。

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