短編小説「はるかなる」作 清住慎   ~7~

7.

 その日の夜、私は二回も自慰で放出した。動画は見ていない。頭の中で、自分の思うままになる遥佳と何度も性器を擦り合った。明確な拒絶の言葉を突きつけられたことで、行き場を失った遥佳への思いは私という火山の中でマグマとなって膨張し、右腕を媒介にして噴火した溶岩は精液となって体外へ溢れ出た。

 果てた後の、男特有の虚しさと共に胸に残るのはせつなさだった。

 この気持ち、どうすればいい?

 真剣に考えてみる。キスの理由を説明するチャンスをもらえなかった以上、今後の選択肢は二つだ。

 一つは、このままなし崩しにキスしたこと自体を時間と共に忘却の彼方へ置き去りにして、互いに今まで通り振る舞うことだ。

 考えてみれば、ティーンエイジャーではあるまいし、どちらもキス一つで大騒ぎするような年齢ではないのだ。ティーンエイジャーがあんなにねっとりとしたキスを出来るかどうかは置いておいて、当面そこから先に進もうと思わなければ、見た目は今まで通りの関係を維持出来るだろう。

 運がよければ、その後の関係修復次第では、自分の気持ちを打ち明けるチャンスが来るかもしれない。

 もう一つは、強引にことを運ぶという方法だ。メールするなり、電話するなり、待ち伏せするなりして強引に会う約束を取りつける。約束が無理ならば、その場で自分の気持ちを打ち明け、前よりももっと激しいキスをして、ホテルに連れ込んで押し倒す。

 だがこの場合、それでも受け入れられなかったときには互いに傷つき、どちらか、もしくはどちらもが職場を離れなければならなくなるかもしれない。

 さらに私の場合、そうまでして自分の気持ちを伝えたいならば、それなりの覚悟が必要になる。

 それはつまり、全てを捨てて遥佳だけを欲しいと思えるかどうか、ということだ。清美や一太と別れ、今の職場や友人と離れ、今までの肩書きと給料も失い、文字通り裸一貫で遥佳の元へ行けるかどうかということだ。

 そうしたからといって、遥佳が確実に自分を受け入れてくれるという保証はどこにもないのだ。いや、元々私の単なる片思いだったのだから、そうならない可能性の方がはるかに高い。

 それでも万に一つの可能性に賭けて、私は遥佳の元へ行くだろうか? それほどに、私は遥佳がいないと生きてはいけないのだろうか?

 冷静に考えてみる。私が今の家族を捨てて遥佳を追い求めることなど出来ない。というより、虫のいい話だが、家族という存在が盤石であるという前提の上に遥佳を愛する気持ちがあるのだ。

 世の男は皆こんなにも下劣なものか。既に持っている失いたくないものは失わず、新たに欲しいものは手に入れたいと思っているのだ。

 加えて、私は遥佳の私生活をほとんど知らないし、特に知りたいとも思わない。さらには、彼女が泥酔した際に誰彼構わずしなだれかかるのは嫌いだが、以前からそうなのかどうか興味はないし、今後も特に諫める気もない。

 つまり私は、遥佳の全てをもっと深くよく知りたいとは思っていないのだ。会社にいて見えている彼女の一部分だけを見て、それに自分の想像を少し加えた彼女を愛しているのだ。

 私にとって、遥佳は生活を共にするための女ではないのだ。では一体何だ? 単なる浮気相手? セフレ? 

 正直、どれも否定出来ない。私の悩みはさらに深まる。だがいかなる努力をしても、私の中に、遥佳のことは忘れよう、諦めようという感情は一向に生まれてこない。彼女が誰かに嫁いだり、激しく性器に突っ込まれたりして喜悦の声を漏らしているのを想像するだけで、胸をかきむしりたくなるほど狂おしくなる。

 一体どうすればいい? その心中の問いに呼応するかのように、私の右手は三たび自らの股間へ向かうのだった。


 翌朝、私は今後遥佳にどう接していくか結論を出せないまま、誰もいない社内でコーヒーを入れていた。今日は特に苦みばかりが際立っている気がする。

 席に戻り、私は昨日遥佳から来たメールに返信しておこうと思った。

 昨日は確かに打ちのめされてしまったが、ショックで返信出来なかったと思われるのも癪だし、誘いを断るメールに対して返信が来なかったら、彼女の方が再送するかもしれないし、直接言いに来るかもしれない。それは避けたかった。同じ拒絶の言葉でも、彼女の口から直に言われた方がショックははるかに大きい。

 ここは一つ、大人らしく平静を装って返信しよう。「了解しました。また次の機会に」とでも書くか、それとも最初に、「返事をありがとう」とでも入れようか。私は少し考えてから、遥佳に返信メールを出した。

 すると、私が送信ボタンを押したのと同じタイミングで、遥佳がドアを開けて出社して来た。私は心中の動揺と驚愕を必死で抑え、いつもと変わらぬ声音で挨拶を返す。

 いつも通り、彼女は植木に水をやる。私はそれを見ている。

 彼女が席に戻り、自分のパソコンの電源を入れる。私は彼女がいつ自分の返信メールを見るだろうかと気が気でなかったが、あまりちらちら見ていると目が合って気まずい思いをするかもしれないと思い、ひたすら自分のディスプレイに映るメールソフトの画面を気にしたりする。

 そのせいで、最初遥佳が自分の元へ歩いて来たことに全く気がつかなかった。気がついたのは、彼女から「課長さん」と呼びかけられたからだ。

「え?」
 私は顔を上げた。語調に冷たい響きを感じた私は彼女の顔を覗き込む。そこにあるのは、怒りを伴った冷ややかな表情。一体何故?

 彼女は私と目が合うと、たった一言こう言い放った。
「私、そんなに安っぽい女じゃありませんから」

 私が意味が判らずポカンとしていると、彼女はさっさと自分の席に戻って行った。

「あ、ちょっと……」
 私は腰を浮かしかけた。何のことだかさっぱり判らない。

 ちょうどそこへ、今度は瑞穂が出社して来た。私は慌てて腰を戻す。

「おはようございまぁす。一本早い始発に乗ると、やっぱ楽ね」
なんて言いながら、瑞穂はこの気まずい雰囲気をずかずかととぶち壊してくれる。それはありがたかったが、同時に遥佳に問い質すチャンスを失ったことについては舌打ちせざるをえない。

 瑞穂はそのまま遥佳の元へ行き、
「こんなに楽に乗れるなら、毎日早く来ようかしら」
などとやっている。

 私は席に落ち着き、一瞬前のことを思い返す。遥佳は確かにこう言った。

「私、そんなに安っぽい女じゃありませんから」と。

 何故だろう。この発言の根拠は何か? 思い当たることが全くない。今さら先日キスしたことに対して言っているわけでもないだろう。

 今朝私が彼女に対してしたことはたった二つ。一つは朝の挨拶。もう一つは、彼女からのメールに対して返信したことだ。まさか挨拶の仕方が気にくわなかったくらいで怒り出すとは思えないから、そうなると原因は必然的に返信したメールということになる。

 しかし、そうなるとさらに判らない。一体あのメールのどこに遥佳が怒り出す原因があるというのだ? 

 私は単に、飲みに行こうと誘ったことに対し、彼女が断りのメールを送って来たので、「返事をありがとう。了解しました。ではまたの機会に。」と書いて返しただけだ。この文章のどこに、彼女をして「そんなに安っぽい女じゃありませんから」と言わしめる原因があるのだろうか?

 全く判らなかった。判っていることは、とにかく彼女が私に対して激しく怒っているということだけだ。

 それからというもの、彼女の私に対する態度は今までと一変してしまった。

 朝も、返事を受け入れないような冷ややかなトーンの早口で挨拶をし、私と視線が合わないように顔を背けて足早に自分の席へと向かう。仕事上で会話のやり取りをすることがあっても全く感情がこもっておらず、目も合わせない。

 勤務時間中にふと視線がぶつかっても、瞬時に彼女の方から逸らす。少しでも私と話すのも、目を合わせるのも、近づくのも嫌だというのがありありと判る。

 私は自分がもてる人間ではないことをよく知っているし、異性にそういった態度を取られることに幼少時から慣れているので、たいていの場合は動じないのだが、今回ばかりは正直戸惑っている。

 本人から教えてもらえなくとも、原因が推測出来れば何とか自分を納得させて耐えられるのだが、私から見れば、わけなく突然嫌われるという状態に等しいため、感情的にはかなり耐え難い。実際には、彼女の方では「わけなく」ではないのかもしれないが。

 確かに彼女の気持ちを考えずキスしたことは、いいこととはいえないかもしれない。が、私にはどうしてもそれが今彼女が怒っている原因だとは思えないのだ。

 残念ながら、朝の二人きりの時間に彼女が私の席の前の鉢植えに水をやりに来るのを利用して、彼女に問い質すという手はもう使えない。というのは、数日前に始発の気楽さの虜になった瑞穂が、毎日早く出社するようになったからだ。遥佳と同じくらいか、ときには遥佳より早くなることもある。

 そのため、植木の水やりも分担するようになった。私の前の鉢植えには、瑞穂が水をやりに来る。瑞穂とは軽口を叩き合うことが出来、気分的にはだいぶ救われるが、代わりに遥佳との二人きりの時間は失われた。

 もっとも、こんな状態で今まで通り遥佳と二人きりになったとしても、以前のようにそれを楽しむことは出来そうにないので、それはそれでよかったのかもしれないが。

 私は急いで解決することに固執せず、しばらく時間を空けてほとぼりが冷めるのを待つことにした。そうして少しずつ彼女の態度が緩んでくれば、何とかこの状況を打開出来るチャンスが生まれるのではないかと思ったからだ。

 だが遥佳は思ったよりも執念深く、いつまで経っても私に対する冷ややかな態度を変えようとはしなかった。社内の飲み会でも、事前に私が出席すると判るとドタキャンするようになった。偶然二人共飲み会に出席したときでも、もはや彼女の右隣は空いていなかった。代わりに、遥佳の隣に座っているのは瑞穂。私は瑞穂の右隣に座るようになった。

 しかし、私に対する態度以外は、遥佳は全くもって今まで通りだった。彼女の表情に苦悩の翳りは見られず、相変わらず社内では人気者だった。

 私はそれでも、いや、それだからか、夜ごと彼女を思い自慰に耽るのを止められなかった。こんな状況下では私の妄想も乱暴になり、無理矢理彼女を押し倒し、服を引きちぎって組み伏せることで股間を膨らませるようになった。現実の世界に戻っても、実際そうしてみたいという衝動に駆られるが、翌朝彼女の姿を見る度に、やっぱり出来ないと思うのだった。

 そして事態は一向に改善されないまま日が経ち、私達は社員旅行へと立つことになった。

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