短編小説「はるかなる」作 清住慎   ~2~

2.

 翌朝、私は傘を広げながら一人自宅の玄関を出た。通勤に少々時間のかかる私は、まだ妻と子が眠っている間に家を出る。

 駅へ行く途中至るところにある畑では、キャベツや茄子が何週間ぶりかの雨を喜んでいるかのように艶やかだ。

 借家だが、この閑静な雰囲気と自治体の育児サポート体制が気に入って、こんな郊外にもう九年も住んでいる。

 都心まで延びている私鉄のプラットホームへ上がると、ほどなく始発列車が入線して来た。この時刻の列車に乗ることはもう何年来の習慣だから、車内は見覚えのある顔ばかり。だが他人であることに変わりはないので、名前も知らなければ口をきいたこともない。

 私はどんなに空いていても列車内では座らないのがポリシーなので、戸口の脇に立って文庫本を広げる。これも習慣の一つ。終点までの約一時間で七割方は読み終わってしまうため、私の鞄には常に三、四冊は本が入っている。車内の混雑が嫌いな私は、本がなければとてもじゃないが乗っていられない。

 終点まで行き、乗り換えてさらに都会のど真ん中へと向かう。ドア・ツー・ドアで約二時間、日々マスコミで若者の街、女子高生の街と騒がれる繁華街の裏路地を行った先に、私の勤める株式会社ルビアはある。

 三階へ行き、念のためドアノブを回す。鍵がかかっている。当然だ。毎日私が一番乗りなのだから。キーを差し込んでドアを開けると、前日遅くまで会議でもしていたのか、煙草の残香が充満していて一気に気分が悪くなった。片っ端から窓を開ける。多少雨は入るが、そんなことは気にしない。

 たちまち空気が循環し、私はようやくホッとする。給湯室へ行き、電気ポットに水を入れ、コンセントを差し込んで沸かす。自分専用のドリッパーを取り出してフィルターを乗せ、そこへコーヒーの粉末を落とす。朝は濃いめがいい。すぐに湯が沸いて、私はマグカップ一杯分のコーヒーをドリップする。そして席に戻る。外に出て高くてまずいのを飲むよりは、この方がずっといい。

 コーヒーを飲みながらメールをチェックし、今日の仕事に優先順位をつけていく。それからメールニュースを拾い読みし、ブラウザを起動して、スポーツや経済などの今日のニュースを広く浅く把握する。だいたいそのあたりまで進んだところで、いつもは入口のドアノブが回るのだ。

 カチリ。ほら来た。私は一瞬綻んだ表情を引き締め直し、パソコンのディスプレイを注視しているポーズを作る。

「おはようございます」
 明るいが静かなトーンの挨拶をして、遥佳が入って来る。今日はライトグリーンのコートが目に眩しい。

「おはよう。まだ降ってた?」
「ええ。だいぶ小雨になりましたけど」

 一日の中で、会話が朝の挨拶だけのこともある。だが、ほぼ毎日、一日の最初に遥佳と会話出来ることが嬉しくてたまらない。

 彼女は特に私の方を見るでもなく、ロッカールームへ入って行った。といっても、この会社に制服はないので、コートをかけるだけなのだが。

 コートを脱ぐと、紺のブラウスとベージュのパンツといったスタイル。バストもヒップもふくよかと言うほどではなく、全体的にスレンダーなプロポーションだ。栗色にマニキュアされた肩までの髪。大きめの口がチャームポイントの顔は美人というよりは可愛いという印象。

 入社当時から、遥佳は社内での人気はダントツナンバーワンだ。新卒入社だったから、もう入社六年目の二十八歳。独身。以前は何人かいたのを知っているが、現在彼氏がいるかどうかは判らない。

 というのは、彼女は以前、つき合う男によって髪型や服装の好みががらりと変わったからだ。現在そういった様子が見られないのは、本当にいないからなのか、いるけれども年齢による落ち着きで自分のスタイルを確立したからか。

 これから数十分は、私と遥佳の二人きり。それは私にとって、至福であると同時に苦痛の時間でもある。

 デスクの掃除もお茶を入れるのも、この会社では各自でやることになっている。彼女の一日の最初の仕事は、植木に水をやることだ。

 給湯室で水差しを満たし、パーティション代わりにデスクのブロックを仕切る背高の観葉植物達に次々に水をやっていく。その順番はいつも一定だ。私のデスクのすぐそばにも植木はあるから、始めてしばらくすると彼女は私の近くにやって来る。そのとき彼女は、私のデスクの前に背を向けて立つような状態になる。

 来た。彼女の身体が押しのける空気が私の元に届く。それには彼女の髪の匂いと体臭が甘く官能的に含まれている。それを嗅いだ瞬間に、私はデスクの下で屹立し、悟られやしないかと冷や汗をかきつつも少し期待したりする。

 水差しの口を鉢に近づけるため、彼女は前屈みになる。すると突き出された彼女のヒップにショーツのラインが浮かぶ。ほとんど会社にスカートを穿いて来ないわりには、ショーツはハイレグ系のものが好きなようだ。背中を見ると、ブラジャーのホックとストラップのラインが浮かんでいる。

 それらを見るとき、私はサイズを買い間違えたのではないかと思うほどスーツのズボンをきついと感じる。興奮が暴走しないよう静かに呼吸を整える。

 蛇の生殺しのようなこんな状態を、私は毎朝味わっているのだ。ときどき思う。私がこんな風に見つめていることを、彼女は気がついているのだろうか、と。

 彼女か私が休まない限り、毎日全く同じことの繰り返し。その間彼女は私の視線に気づく様子もないし、振り向いて私に話しかけることもない。けれど、本当に気づいていないのだろうか? 気づかぬふりをしているだけではないのか? もしくは私の前に故意にヒップを突き出すことにより、私を挑発しているのではないか?

 もしそうなら私はどうする? 挑発に応じて直ちに襲いかかるだろうか? 

 いや、それはないだろう。もう少しすれば社員がどっと出勤し始めるのだ。彼らに目撃されたらしゃれにならないし、襲いかかって彼女にその気がなかったとしたら、私は即座に留置場行きで仕事もクビになるだろう。だからどれだけ耐え難い衝動が来ても、実際に襲いかかるわけにはいかない。

 仮に彼女の気持ちが私にあっても、職場でそうするわけにはいかない。アダルト動画のような非日常のシチュエーションに興味がないでもなかったが、現実にはそんなこと出来っこないことは理解しているのだ。

 だがそれでも、込み上げる衝動を抑制するのは毎朝非常に労力の要る作業なのだった。

 やがて彼女がフロアの奥へと水をやりに移動した頃、他の社員達がどやどやと入って来て、社内は一気に騒がしくなった。

 こうして彼女と二人きりの時間は、毎日余韻なく断ち切られる。

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