短編小説「はるかなる」作 清住慎   ~8~ end

 8.

 行き先は、関東を少し外れた、海の見える温泉街である。社員全員で温泉のある宿に行き、宴会をして一泊して帰る。それだけのことだ。だが昨今は不況により社員旅行を実施する企業が激減しているということだから、私達はそれなりに恵まれているのかもしれない。

 早起きをして集合し、二台のバスに分乗して高速道路を走る。最初ははしゃいでカラオケや酒盛りをしていた連中も、そのうち飽きて眠り込んでしまった。隣の席にいる瑞穂も、私の肩に頭を預けて寝息を立てている。

 遥佳は別のバスに乗っていた。分乗の仕方は純粋にあみだくじの結果によるものであって、何ら意図的なものではなかった。

 私はこの泊まりがけの旅行という大きなチャンスを利用して、何とか遥佳との関係を修復したいと強く思いながら窓の外を見ていたが、単調な景色の繰り返しに速やかに飽きてしまった。

 あのときからこれまでずっと考え続けてきて、気づいたことがある。

 それは、私の遥佳への思いは、彼女との関係に継続性を求めているものではなく、また、求めるべきものでもないということだった。

 そうなのだ。愛とは継続的なものだという概念から逃れられなかったから、私は苦しかったのだ。

 愛の形は様々だ。大切なことは、その愛が真実かどうかということであって、背景も継続性も形状も、そんなことはどうだっていいのだ。

 私が遥佳を愛しているのは真実だ。それならそれでいいじゃないか。私はその愛を、一瞬でもいいから燃焼し尽くせば、それできっと満足出来る。

 だから今回の一泊旅行の中で、私はどうしても遥佳と二人きりになる機会を持ちたいと思っている。現在無視されている状況を回復し、真実の愛を伝えるために。だが期待はしているが予想はつかない。

 問題は、遥佳が「その瞬間ごとの真実」というものを理解してくれるかどうかだ。

 宿泊するホテルに着くと、学生じゃないので宴会の時間まで観光しようと思う者は皆無だった。だいたいが心身を休めるための旅行であって、そのために温泉地を選んだのだ。宴会まで街を走り回るような酔狂な者はいない。

 とにかくまずは部屋へ入り、荷物を置いて落ち着いてから、宴会までの空いた時間をどうするか考えよう。今夜どうやって遥佳と二人きりの時間を作るか、その計画も立てなければならない。

 やっぱりそうなったか、というのが正直な感想だ。ホテルの部屋割りは当日のチェックインまで知らされていなかったのだが、予想通り私の同室は山田。しかも一人ドタキャンしたので、三人部屋に山田と二人。

 もっとも事務系は男性比率が低いから仕方がないのだが、それでも今夜遥佳と二人きりになりたいと思いを巡らせている自分が、あからさまに遥佳に好意を寄せている山田と同室になるのは、あまりバツのいいものではなかった。

「課長、本当にあの日何にもなかったんすか?」
 部屋に入ると、早速山田が訊いてきた。こういうねちっこい部分がなければ、もう少しもててもおかしくない容貌なんだが。

「ないよ、本当に。お前も結構しつこいな。何なら遥佳に直接訊いてみればいいだろう」
「だって、示し合わせてたら判んないじゃないすか」
「あのな、そんなに好きなら、自分の気持ちを正直に伝える方が先じゃねえのか? 彼女がお前以外の誰かといつ何をしたとか、そんなのは関係ねえし、ある意味仕方ねえだろうよ。お前は遥佳の過去が欲しいわけじゃなくて、未来を捕まえたいんだろう? あ、もっとも、こんなことを言うからって、俺と遥佳の間には何もなかったけどな」

 私が溜息混じりに言った言葉に、山田は一瞬ポカンとしていたが、
「へえ、そっか。そうっすよね。さすが年の功。そういう風に考えれば、何か気楽にアタック出来そうですよね、うん」
と、笑顔で頷いた。

「バカ野郎、年の功はよけいだ」
 私は言い返す。顔は笑っているが、心の中は裏腹に後悔でいっぱいだ。

 私は上司と部下の良好な関係を装うために、山田に遥佳への告白を煽ってしまった。社員旅行という状況は、そういったことにうってつけだ。普段は踏んぎりのつかないことでも、泊まりがけの非日常的な夜なら出来そうに思えてしまう。

 山田だってそうだろう。告白するなら今夜だと考えているはずだ。そうならば、私の遥佳と二人きりになりたいという思いとぶつかってしまう。山田以外にも遥佳をどうにかしたいと思っている男はいるかもしれないから、今夜私の行く道には幾重もの障害があるだろう。

 今ここで自らの手で障害を一つ増やしてしまったことには歯咬みをする思いだった。

「課長、俺温泉入りに行きますけど、課長もどうすか?」
 私の心中を斟酌することなく、山田は笑顔で誘う。

「いや、いいよ。俺後でざっと入るから」
「そうすか」
 そう言うと、山田は鼻歌など歌いながら部屋を出て行った。

 私は正直ホッとした。これから今夜のことを考え直さねばならない。酒も入った開放的な状況だから、告白の先着順が命運を左右するところは大きい。そのため、私は何としても誰よりも先に遥佳と二人きりになって告白する必要がある。何故なら、私は妻帯者である上に現在遥佳に無視されているという、間違いなく告白希望者の中で一番分が悪い状況にいるからだ。

 私は宴会までの間に脳をフル稼働させ、何かいい方法を考え出さなければならない。温泉に入るのはその後のことだ。

 とはいえ、ギリギリまで悩んで何も浮かばなくても、もしうまくいったときのことを考え、後で簡単にでも入っておこうとは思うのだった。

「では皆さん、今日は忙しい中に英気を養う意味も込めて……」
と、社長がマイクを持った瞬間、私達社員一同は乾杯のため手にしたグラスをお膳に戻した。これはいつものこと。学習能力のない司会が毎度、乾杯のためグラスを持ってご起立を、と言うけれど、社長のスピーチが手短に終わることは全くといっていいほどない。

 今日は畳敷きの和室にお膳という宴会スタイルで、全員浴衣着用が強制されている。社員総数に対して九割方は出席しているのではないだろうか。

 全社的なイベントでは部署間の垣根は取り払うのが方針だから、席はランダムなくじ引きだ。そのため私は入口側の壁際、遥佳は反対側の窓際。かなり離れている。これでは会話をするにも「ちょっと」ではなく「わざわざ」の距離だ。そして山田は何と遥佳の二つ左隣。場が和み、崩れてくれば、耳元で囁こうが肩を抱こうがどうにでも出来る距離だ。

 山田が本気なら、私はスタートラインに立てず失格になる一歩手前といったところ。何故なら、遥佳も山田も一般社員であるため自由がきくが、課長という立場の私は上役に酒を注いだり、形だけでも課長同士で交歓を繕ったり、部下の日頃の労をねぎらったりしなければならないからだ。

 ようやくの乾杯の後、私はそういったことで時間を費やしていく。自分が飲むどころではなかった。時折横目で窓際を見ると、まだ座は崩れていないが、山田がちらちらと遥佳の方を見ているのが判る。

 私は段々気が気でなくなってくるが、宴席とはいえ課長の仕事を放擲するわけにもいかない。さらには、グラスを割って足の指を切った奴をホテルの救護室へ連れて行ったりとか、明日の朝食券の発行確認のサポートなどをしているうちに、自分のいない宴会場の時間は瞬く間に過ぎていった。

 ようやく一区切りついたのは、宴会場の使用終了時間の数分前。とにかく私は急いで会場に戻ることにした。何よりも遥佳の姿を確認することだ。知らぬ間に誰かに連れて行かれてしまっていたら、それで全ておしまいだ。

 不意に、廊下を早足で歩く私の前に一個の人影が立ちはだかった。瑞穂だ。瑞穂は酔いのせいか頬を赤らめ、私の両腕を取ると、
「桐さん、急いで!」
「え? 何だ?」
「早く、早く!」
「お、おい、瑞穂……」
 私は全く何が何だか判らないまま、瑞穂に手を引かれて廊下を横道に逸れた。

 「リネン室」のプレートが見えた。瑞穂は私をそこへ押し込み、内側から扉を閉めた。そして唖然として開いたままの私の口を、瑞穂のそれが激しく塞ぐ。ねじ込まれる舌と唾液は甘く酒臭く、とろけるように官能的だ。ともすればそれに耽溺し、本来の目的を忘れてしまいそうなほどに。だがかろうじて意識が溺死せずに済んだのは、瑞穂の方が先に酸欠になって唇を離したからだった。

「瑞穂……」
 私は呟くように言った。正直驚いていた。私が遥佳にしたいと思っていたことを、まさか瑞穂からされるなんて思ってもみなかった。私の方は、瑞穂をそういう対象として見たことなど今までなかったが、瑞穂が私をそういう対象として見ていることは明白だ。その証拠に、瑞穂は今度は私の浴衣の帯を解き、裾をはだけさせて露わになった胸元に擦り寄って、首筋や乳首に舌を這わせ始めた。

「お、おい、瑞穂……」
 私は瑞穂の舌の動きにいちいちビクリと反応しながら、溜息混じりに言葉を吐き出した。が、瑞穂は話しながらも舐めるのを止めない。

「桐さん、好きよ。こんな風にするの、ずっと夢見てた……」
 私は危険な感覚に囚われ始めていた。このまま官能が昂ぶるのに任せ、瑞穂を全裸にして突っ込んでしまいたくなる。が、辛うじてまだ理性を保っていられるのは、ここが宴会場の傍らのリネン室であるということと、一刻も早く遥佳に会いたいという思いがあるからだった。しかしなかなか思いきって瑞穂を突き放せない。

「ちょっと……待って。瑞穂、どうしてこんな……」
「言ったでしょ。ずっと好きだったの。今日のこのチャンスを、ずっと狙ってた……」

 瑞穂はそう甘く囁き、今度は私の耳朶を吸い始めた。私が遥佳と二人きりになるために今日の社員旅行を利用しようとしていたように、瑞穂も私に対して同じことを考えていたのだ。

 私は荒い鼻息を吐かされながら考えてみる。一体瑞穂は、いつから私のことを好きだったのだろう? 全く気がつかなかった。いや、……思い当たることはないでもない。そういえば、健康診断の前日に、「今度飲みに行きましょう」というようなことを言われたことがあったっけ。あのときは、もしかしたら二人きりで、という意味かとちらりと考えたりもしたが、その後特別なアプローチはなかったし、そう深刻には捉えなかった。

 ……って、ヤバい。もうそんなことを悠長に考えている場合じゃない。肉体的な反応が極限に達しようとしている。これ以上はもう耐えられない。

 私は一瞬考え、はねのける代わりにきつく抱き締めることによって瑞穂の行動を抑制しようと試みた。

 そしてそれはうまくいった。抱き締められた瞬間、瑞穂は小さく「あ……」と声を漏らし、心底嬉しそうな表情を見せた。それが私を激しく動揺させる。何とか吹っきらないと、とにかくこの場を切り抜けて遥佳の元へ行かねばならないという決意がぼやけてしまう。だが瑞穂に対して明確な拒絶の言葉を言うことが出来なくて私は苦悩する。それは男の意地汚さが滲む現実だ。

「瑞穂、ダメだよ。俺は……」
「ううん、言わないで。……判ってる。あなたには奥さんも子供もいるってこと。でも、……でもね、それでもいいの。今日だけ、今日だけでいいから、私をあなたのものにして。その後につき合ってとか、奥さんと別れてほしいとか、絶対に言わないから……」

 瑞穂の、私の身体にしがみつく力の強さから、痛いほどの思いが伝わってくる。

 私が遥佳に言おうとしていたことを、そっくり瑞穂から言われてしまった。私はそんな瑞穂をいじらしいと思い始めて意識する。すると急に瑞穂の身体の熱さが気になり出す。ボリュームのある柔らかな胸が私に押しつけられている感触に気づく。遥佳のそれとは違った、柑橘系っぽいフェロモンが私の鼻腔を刺激する。

 既に私の性器は浴衣の下でこれ以上ないほどに反り返り、それは彼女の下腹に当たって気づかれている。互いの鼓動が伝わり合う。

 私はようやく口を開いた。
「瑞穂、まずいよ。俺、宴会の精算チェックの担当だから、行かないとホテルの人が探し回るかも」

 瑞穂はそれを聞くと、返事の代わりか私のはだけた生肌の上にするすると掌を滑らせてから、ゆっくりと身体の密着を解いた。そして言った。

「桐さん、それが終わったら、私の部屋に来て。私の部屋は二階、二二四号室。私一人しか、いないから。私、ずっと待ってるから……」

 その潤んだ瞳と共に私の心は揺れた。だが私は何も言わず、静かにリネン室を出た。

 同時に夢から覚めたような気持ちになる。今までのことは、はたして現実に起こったことなのだろうか。混乱してしまいそうだが、全身に浴びた瑞穂の身体の感触と、口の中で自分のものではない唾液の味がすることが、それが夢ではないと教えてくれている。

 私は宴会場へ歩いた。近づくにつれて、騒ぎ声が耳に入ってくる。もう宴会場の使用時間は過ぎているはずだが、ホテル側の厚意で延長してもらったのか。やれやれ、このハイテンションの中へ入って行くのは大変だ。遥佳は一体どうしているだろう。

 そう思いながら入口のドアを開けようとした私の手が、予想外に空を切った。ふと見ると、私より先に中からドアが開けられている。そして不意に出て来た人影を、私は避けることが出来なかった。私は正面衝突し、相手の勢いに押されて背中から床に落ちた。それを痛む間もなく、相手の全体重が自分の上にのしかかる。痛みと衝撃と共に、ムニュッとした感覚が私の胸に押しつけられた。私は相手の顔を見た。

 それは遥佳だった。遥佳の方も、自分が押し倒して腹の下に敷いている相手が私だということに、すぐに気がついたようだ。

「あのっ、ごっ……、ごめんなさい!」
「どうした? 一体……」

 私はそう訊き返したが、視線は彼女の乱れた裾からこぼれかけた胸の谷間に吸いつけられていた。遥佳も気づき、慌てて裾を正し、立ち上がろうとする。

「山田君が、酔っぱらってしつこく私を追い回して……」
と、言ってるそばから、山田が「遥佳、好きだあーっ」と叫びながら、おぼつかない足取りで駆け寄って来る。私も遥佳もぎょっとした。もう完全に目がイってしまっている。

「課長さん」
「ん?」
「逃げましょっ!」

 遥佳は私に手を差し伸べて立ち上がらせると、その手を掴んだまま廊下を走り出した。私は宴会場の方を振り返りながら、それに引っ張られていく。

 宴会場の中で、山田は数人の男子社員に取り押さえられ、畳に押し潰されていた。そうされながらも、「どこ行くの、遥佳ちゃん。愛してるから戻ってカンバァーック!」などとかすれた声を絞り出している。

 かくして私の不安は杞憂に終わった。と同時に、山田に対して哀れみを覚える。

 あんな告白方法は最悪だ。幾ら酒の力を借りなければ言えないからって、こんなに絡むほど泥酔する奴があるか。こうなったことで、今日の山田の告白は本気で受け取られなかったばかりか、以後素面で何度告白しても全て冗談だと思われてしまうだろう。そして真剣に思われない愛の告白をする者は、速やかに恋愛対象外となる。 

 そのハンディキャップを取り戻すのは、並たいていのことではない。いや、それは永遠に無理かもしれないのだ。

 私は心の中で「ご愁傷様」と手を合わせ、それきり山田のことは忘れることにした。これからの遥佳とのことに思考を集中する。

 遥佳と手を取って辿り着いたのは、ホテルの中庭だった。建物を背にすると港が見える。曇天のため星は見えないが、遠巻きに街並みが作るイルミネーションや船の灯りがきらきら輝いて幻想的な気配を醸し出している。

 遥佳は「わぁ、綺麗」なんて言って見とれている。

 私は気分が昂揚してくるのを感じた。開放的でロマンティックな風景。そこに遥佳と二人きり。こんな理想的なシチュエーションはない。今こそ、そうすべきときだ。

 私は港を眺める遥佳の背後にそっと近づき、静かな声音で呼びかけた。

「遥佳」

 彼女は、私がすぐ背後まで来ることを予測していたに違いない。そのくらい滑らかで、迷いのない動きだった。

 遥佳は、私の呼びかけに反応してすぐに向き直り、私の首に両腕を巻きつけて引き寄せると、彼女の方から唇を重ねてきた。それは舌を絡め合うような激しさではなく、潤んだ唇の甘みをすすり合うかのような、静かな、それでいてかえって淫靡に性感帯を刺激するキスだった。私はしばし予想外のことに唖然としたが、すぐに呼応して、彼女の唇の甘みを余すところなく吸い取ろうと試みた。

 しばらくして、遥佳の方からゆっくりと唇を解いた。唾液が糸を引くのではなく、溶けて混ざり合った唇が引き剥がされるような感覚だった。

 私の官能は一気に沸騰し、今すぐ遥佳に襲いかかりたいという衝動は、どうにも抑えられないところまできている。が、そんな私に、遥佳は頬を染めながら上目がちにこう言ったのだった。

「これで、おあいこ。プラスマイナスゼロってことにしましょ。ね?」

 言いたいことはすぐに判った。私からのキスをプラス一とし、彼女からマイナス一のキスをすることによって、キス自体をなかったことにしようと言うのだ。彼女もずっとあのときのキスのことを気にしていたのだろう。なんて可愛い、と思い、直後にその行為の本質に気づく。

 彼女は、キスによって伝えた私の気持ちを受け入れられないから、私にキスを返すことによって帳消しにしようとしたのだ。唇の触れ合いで得た官能が大きければ大きいほど、それはショックとして私の心身に跳ね返る。

 私の心は一気に闇色に染まってしまった。が、ここで理由を問い質したり、すがるように彼女への思いの強さを説明しようとしても、どらちも状況を深刻化させるだけで、彼女に明るい翻意を促す効果を与えない。

 一番いい方法は、問題をはぐらかすことだ。それが出来なければ、出来るだけ軽く返して、そんなに重要な問題じゃないんだよ、と気持ちを軽くさせてやることだ。だが私の方も、頭では判っていても、心中にショックによる混乱があることも事実。でもここで無言の間は最悪の命取りになる。だから私は、無理矢理の笑顔と共に言葉を絞り出した。

「嬉しいよ、遥佳の方からキスしてくれるなんて。ここのところ、ずっと君には嫌われていたような気がしていたからね」

 すると彼女は、少し恐縮した表情になって、
「それは……、ごめんなさい。誤解、だったんです」
「誤解? どういうこと?」
「あの、キスされた日の翌々日、朝、私の机の引き出しにメモのついたそれ、が入ってて……」
「それ? それって?」
「あの、その、避妊用、のゴムっていうか……」
「ああ、なるほど」
「で、メモには『これをきっかけに、この一箱を使いきるほど君を愛したい』みたいなことが書いてあって、私、てっきり課長さんだと思って、カーッとなっちゃって……」

 なるほど。それがあの、「そんなに安っぽい女じゃありませんから」発言と、その後の無視につながるわけだ。あの状況なら誰だって、「これをきっかけに」の「これ」を一昨晩のキスだと解釈するだろう。

「でもそれは、誓って俺じゃないよ」
「ええ、ごめんなさい。課長さんはあんな風ないやらしいアプローチをする人じゃないって判ってたんですけど、他に誰がっていわれると思い浮かばなくて……」

 少し風が出てきた。互いの浴衣の裾が揺れ、遥佳の髪がなびく。
「じゃあどうやって、誤解だって判ったの?」

 遥佳は髪を指で梳き直しながら間を空けた。まるで言うのを躊躇するかのように。

「……あのときのキス、私達以外に誰も知ってる人はいないって思ってたから、最近までずっと課長さんだって誤解してたんだけど……。よく考えたら、他に知ってる人がいたんじゃないかって思って、あの日のことを思い返してみて……気がついたんです」

 遥佳はそこで言葉を切った。私は無言で先を促す。
「私、あのとき、課長さん駅まで送って飲み会に戻るつもりだったんだけど、あんなことがあってびっくりして、そのまま家に帰っちゃったんです」

 そうだった。私はそれを知らなくて、翌朝山田に、「遥佳ちゃんをどこにお持ち帰りしちゃったんですか?」と、あらぬ疑いをかけられたのだった。

「それなのに、一番仲のいい彼女から、どうしたのっていう連絡もなかった。翌朝、私が飲み会に戻らなかったことで山田君が騒いだけれど、結局彼女は一度も私に、どうしたのって訊かなかった……」
「それって、もしかして……」
 遥佳は頷いた。

「訊かなかったってことは、つまり訊く必要がなかったんじゃないかって。何かの拍子であのキスを目撃していたんじゃないかって……」
「瑞穂、が?」
 遥佳が再び頷く。
「あの、ゴムが引き出しに入ってた前日、一番最後まで会社にいたのも瑞穂だったし、あれから私達何となくよそよそしくなっちゃって、あんまりうまくいってないし……」

 確かに遥佳の推理は的を射ている。だがそれが事実であった場合、一つ当然の疑問が持ち上がる。それは、既に数十分前に身をもって体験した私には答えの判っているものだし、遥佳にも容易に想像のつくことだ。

「瑞穂、きっと課長さんのことが好きなんです。だから私と課長さんがキスしたことでカッとなって私の机にあんなものを入れたり……、そう思うと、瑞穂のこと責めたり出来なくて……」

 確かに遥佳の性格ならそうだろう。瑞穂との友情も取り戻したい。私とのことで、もめるのも嫌だ。さっきのは、その打開策としての、ご破算のキスだったのだ。

 そう。私にとっては自体は悪い方向へと向かっている。遥佳は他人が狙っている男からは速やかに手を引く性格なのだ。加えて私は妻子持ち。彼女にとってはマイナス要素の多い存在だ。

 だがただ一つ、まだ確認していないことがある。それは彼女自身の気持ち。彼女自身が私自身をどう思っているかということだ。最後にすがるのはそこしかない。私は意を決した。

「遥佳」
 呼びかけると視線がぶつかり合う。私はその視線にもありったけの気持ちを込めて言った。

「遥佳、俺、お前が好きだ。だから今夜だけでいい。今夜だけ、君を抱きたい。そうすれば、俺はその後の日々を今夜のことを思い出にして、今まで通り生きていくことが出来る。だから今夜だけ、俺のものになってくれないか?」

 ……言った。一気に言いきった。後は遥佳の返事を待つだけだ。胸が破裂しそうなほど大きな音を立てている。その場ごとの真実。それが私が出した結論だ。今夜だけ、この瞬間だけでも私の愛に応えてくれれば、私はそれで満足出来るだろう。

 遥佳は私に背を向け、爪先立って天を仰いでいる。そしてゆっくりと私の方へ向き直ると、いたずらっぽい子供のようにも、蠱惑的な大人にも見える表情で言った。

「それは、嫌。私の気持ちは、今夜だけで済ませられるような軽いものじゃないから」

 私は目の前が真っ暗になった。

 そのとき、柔らかな風が急に強くなった。遥佳は髪を手で押さえ、私は早くなった雲の流れに空を見た。

 すると、灯りの点いたホテルの窓が視界に入った。高さは二階。その部屋の中に、カーテンを開けてこちらを見下ろしている瑞穂の姿があった。

(了)

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