短編小説「はるかなる」作 清住慎   ~5~

5.

「かんぱーい」
「お疲れさまぁ」

 皆が口々に唱和する。一気に中ジョッキの半分ほどを空ける者もいれば、ショットグラスに口づけする程度の者もおり、各自気ままなペースで飲み始める。

 ほぼ全員が健診を終えたその夕方、「とにかく飲みたい!」と叫び出したのは瑞穂だった。聞けば男性社員の中にも健診のために控えていた者が結構いて、すぐに五、六人が同調した。

 瑞穂が来れば、必ず遥佳もついて来る。私に否やのあろうはずがなかった。楽しみにしていた新発見のワイン・バーは体調が完璧のときまで取っておくという瑞穂の主張の下、集まったのはいつもの居酒屋だった。

 やはり遥佳の右隣は空いていた。しかも今日は、「桐さん、こちらへどうぞ」と遥佳の方から声をかけてくれた。私は天にも昇る気持ちで隣に腰を下ろした。

 が、至福のときは長くは続かなかった。二杯目の中ジョッキに口をつけたところで気がついた。酔い方がおかしい。いつもより回りが早い上に、気分が悪くなってきた。何故だろう? 健診で血液検査のために血を抜いたからか?

 血液検査を受けた者は私以外にも何人かいるが、いずれも何ごともなさそうだ。

 私は飲み会を楽しむどころではなくなってしまった。残りの中ジョッキはみんなに悟られぬよう申しわけ程度に口をつけるだけにしておいて、一次会が終わったら帰ろうと決めた。

 元々私は自分から話題を振るタイプではないし、笑顔を作っていれば何とか保つだろう。こんな状況においても、公然と遥佳と近づけるチャンスを自ら途中放棄する気にはならなかった。

 対照的に、遥佳の方はかなりメートルが上がっているようだ。笑い声に抑制がなくなり、少し舌がもつれてくる。

 これは私にとって悪い兆候だ。というのも、こうなってしまうと遥佳は笑いながら誰とでも手をつなぎ、腕を絡め、しなだれかかったり抱きつくようになってしまうからだ。そこには男も女もない。本当に手近の人間に、誰にでもそうしてしまうのだ。そうして甘えながらとにかく笑う。

 それは普段の彼女の控え目な性格からして、豹変といっていいだろう。そしてこのことが彼女の人気をさらに高めているのも事実。

 酔うとこんなにも無防備になってしまうからこそ彼女とお近づきになりたいと思う男性社員は後を絶たない。が、彼女は基本的に瑞穂以外とは一対一で飲みに行くことはないので、彼らはやはりこういった飲み会の席を狙う。 

 そうして抱きつかれたり、甘えられたりしながら、何とか飲み会の後二人きりになろうと策を弄す。

 が、最寄りの駅まで送らせてもらえることはあっても、うまいこと送り狼になれた者は今のところいないようだ。というのは、男はやはり一度寝た女に対しては所有感を持たざるをえない生き物のようで、社内にいればどんなに隠してもその仕種や目配せ、会話のやり取りとなど態度から滲み出てしまうものだからだ。

 そういった点から、現在遥佳とうまくいった男が社内にいないだろうと推測出来る。しかしうまく関係を隠している可能性もゼロではないし、社外に男がいるのかもしれない。それを考えるとき、私の精神は嫉妬に発狂しそうになるので、あえて思考をそこまで踏み込ませない。彼女に喜びの悲鳴を上げさせる奴がいるなんて……とても耐えられない。

 私には、酔って無防備になる遥佳を見ているのはかなり辛いことだ。回りには、「またか。しょうがないな」と笑って見ている者もいれば、ここぞとばかりに彼女に近づいて、スキンシップを楽しみ悦に入る者もいるが、そんなとき、私は彼女が触れ、言葉を交わす全ての者をめちゃくちゃに引き裂いてしまいたくなる。苦労して被っている、温厚でもの判りのいい課長という仮面が壊れそうになる。

 どんなに泥酔していても、遥佳は絶対に私には甘えしなだれかかってはこない。私がどれだけ強く彼女の肌を欲しているかを知ってか知らずか、まるで私に見せつけるかのように回りの男達と戯れる。

 それは酒席において常に遥佳の隣にいる私にとっては、屈辱的ともいえる疎外感だ。私にだけは心を許せないということか? それとも彼女は既に私の気持ちを察していて、危険だからそうしないということか?

 ふと思った。酒席で常に私を隣に座らせるのは、彼女にとっての保険なのではないか、と。

 この中で「長」のつく肩書きを頂いているのは私だけだ。役職者になれば責任も伴うし、一般社員のように会社を気にせず無鉄砲になることもない。

 遥佳は自分が酔うとどうなるかを知っている。その酔った自分を狙う男が何人もいるのも知っているだろう。だからといって誰とでもどうなってもいいという子ではない。課長である私が隣にいれば、限度を超えた際には止めてもらえるのではないか、と期待しているのでは? 

 私が隣に座っていれば、四方を狼に囲まれることはない。酩酊状態の中、少なくとも全方向を警戒する必要はなくなる。そういった計算が彼女の中にあるのではないだろうか。

 よくいえば信頼されているということになるのかもしれないが、それは私の肩書きに対してのことだろうか? もし私自身に対してだとしたら、それは私が彼女にとって人畜無害、つまり恋愛対象外、イコール男として意識されていないということになる。

 すぐれない体調が、さらにひどくなってきた。

 結局遥佳の隣に座ることは、彼女の気持ちが僅かでも私にあるということには全くならないのだ。しかしだからといって、彼女に対する思いが鎮まることなど決してない。遠くなればなるほどどこまでも追いかけたくなるように、さらに私は彼女を求めて止まない。空けていてくれる理由がどうあれ、彼女の隣に座る権利を手放す気など毛頭ない。

 そんな私の内心をよそに、遥佳は反対隣の山田の肩に寄りかかって笑っている。あいつの鼻の下、いつもの十倍くらいは伸びている。

 ダメだ。とても正視していられない。どんどん気分が悪くなってきた。

 私は仕方なくトイレに立つことにした。見ていなければ不安だが、見ていることは不愉快だ。吐いてしまうほどではないが、この場を離れて気を鎮めることが必要だ。

 私が三回目のトイレから戻ると、みんなは会計の準備をしていた。時計を見ると、入店から二時間を過ぎていた。我ながらよく保ったものだが、もう限界だった。

「課長、五千円お願いします」
と、さっきから鼻の下伸びっぱなしの山田が声をかけてきた。

「ああ」
と、私は頷いて、椅子に置いた鞄に手を伸ばす。すると、それをヒョイと横からつまみ上げた者がいた。

 遥佳だった。彼女は潤んだ瞳で私を見つめ、「ハイ、桐さん鞄どーぞっ!」と、私に差し出した。私は苦笑しながら受け取り、礼を言った。

 精算しながら、彼らは次の店をどこにするか話し合い、盛り上がっていた。中でも瑞穂が一番乗り気のようだ。今まで健診のために我慢していた反動がよほど大きいのだろう。

 店員がテーブルを片づけ始めると、みんなようやくぞろぞろと立ち上がる。遥佳はまた別の男と腕を絡めながら、おぼつかない足取りで扉を出て行った。

 自然と入口前にみんなが溜まる。

「さあ、みんな! 次行くよ次ぃ」
瑞穂が拳を振り上げると、ほとんどが「オーッ!」と同調する。みんなのノリに水を差すのは気が引けたが、さすがにこれ以上は無理だ。

「悪いけど、俺帰るよ」
と言うと、たちまち一同の視線が私に集中し、「えーっ?」という声がかかる。だがそれが単なる形式であることは互いに判っている。来る者拒まず去る者追わず。要するに、誰がいなくなっても飲みたい奴らは飲みたいのだ。例外を除いて。

「ちょっと体調がすぐれないんでね。血液検査で血を抜きすぎたかな」

 それを聞いて一同が笑う。私としては半ば本気でそれが原因ではないかと思い、今も相当気分が悪いのだが、笑いを取れば気軽に去りやすくなる。

「悪いね。じゃ、お先に」
 私はそう言って手を上げようとしたが、その直前に固まった。予想外の言葉が私にかけられたからである。

「じゃあ私、駅まで桐さん送って行きます。心配だから」
 そう言ったのは遥佳だった。私は耳を疑った。嬉しくもあり、同時に戸惑いをも感じる。何か理由があってのことなのか、それとも単なる酔っぱらいの戯言か?

 当然回りの男達からブーイングが上がる。それは遥佳が、来る者拒まず去る者追わずの例外にあたるからだ。

 彼らの目的は酒を楽しむことと共に、社内人気ナンバーワンの遥佳とお近づきになることだ。いわばどの飲み会でも彼女が主賓。彼女がいなくなれば飲み会の目的の半分が失われるわけだ。私もそれは判っているし、無用なやっかみを受けるのも嫌なので、

「何言ってんだ。俺よりお前の千鳥足の方が心配だよ。お前と一緒じゃ、駅までいつもの倍はかかっちまう」
と、笑い飛ばせるような言い方で彼女の申し出を拒否した。

「ひっどぉい。でもいいの。私結構酔ったから、少し歩いて醒ましたいし。瑞穂、お店決まったらケータイに連絡くれる?」
 だが遥佳は笑いながら私に歩み寄って来る。こう言われれば、誰も文句の言いようがない。

「OK、遥佳。戻って来るとき迷子になんないでね」
 瑞穂がそう言ってみんなを先導して行く。

「大丈夫よお」
と、とても額面通りには受け取れない語調で手を上げると、遥佳は、
「さ、行きましょ」
と、私を促した。

「ああ」
 私は頷いて歩き出す。だが並んで歩いたのは数歩だけだった。すぐに遥佳が遅れ、振り返ると右にふらふら左によろよろ何とも頼りない足取りだ。

「おいおい、大丈夫か?」
と、声をかけてよく見ると、彼女の足下は黒いピンヒール。こんなもの履いて酔った日には真っ直ぐ歩けなくなって当たり前だ。

 足が一歩進む度、彼女の踝を飾るアンクレットがさらさらと揺れる。私がそれに見とれていると、不意にその足が次の着地を踏み外した。
「あっ」
という声を上げて、遥佳がよろめく。私は咄嗟に彼女の手を取り、倒れないように引き寄せた。

「ごめんなさい」
 彼女がちょっとはにかんで笑う。その表情を見るとき、私の胸は少年のようにキュンとする。

「しょうがないな。お前の方が補助が必要じゃないか。このままつないでてやるから、ゆっくり歩きな」
「すみません」
 遥佳は素直に頷いた。私は天にも昇る気持ちだった。遥佳と二人きりで、手をつないで夜の街を歩く。夢心地のような現実。

 初めて触れた遥佳の手はとても小さくて、私のそれにすっぽりと収まってしまう。酔いのせいかとても熱く、しっとりと柔らかい。私の皮膚に吸いつくようだ。

 歩くにつれて私の指が彼女のそれの間に滑り込んでいき、いつしかしっかりと絡み合っていた。私の全ての性感帯は今や彼女と絡まった指先へ感覚を集中し、彼女から受ける全てのものを微塵もこぼさず拾い集めようとしている。

 私はつくづくスーツの上着を着ていてよかったと思った。私の下半身は既に充分すぎるほどの反応を示していた。こんな往来では手で押さえ込むわけにもいくまい。もし上着を着ていなかったら、たちどころに彼女に気づかれ、絡め合った指先はもぎ取られてしまったに違いない。

 しかし、私が歩けば上着の裾は揺れる。遥佳の足取りによって蛇行を余儀なくされれば時折ズボンの膨れた頂が顔を覗かせる。私はその度に気づかれやしないかと気が気でない。

 だが同時に、吸いつき合う皮膚から私がどれだけ強く思っているかが伝わらないかと期待したり、高鳴る鼓動が起こす激しい血液循環が彼女のそれをも官能的に刺激しないかと願望めいたことも考える。

 そしてふと現実に戻り、周りを見渡す。既にさっきの店からはだいぶ離れていて、瑞穂達はもう影も形もないが、ここは会社のすぐ近く。こんなに大っぴらに手をつないで歩いていて、会社の誰かに見られたらどうしよう。確かに心配だ。だがそのために私は遥佳の手を放すだろうか? 否、そんなことは決してありえないと即答出来る。

 だから私は、すぐさま周囲に気を配るのを止めた。

「桐さぁん、大丈夫ですかぁ?」
 不意に遥佳が言った。が、瞬間的に何のことだか判らない。

「体調、悪かったんでしょ?」
と、上目遣いに見つめられ、私はようやく気がついた。

「ああ、ありがとう。大丈夫だよ、もう」
 そうは答えたものの、正直私は有頂天で、自分の体調のことなど今まですっかり忘れていたのだった。現金なもので、今はもう本当に身体に不快さを覚えない。

「私、心配だったんですよぉ。桐さん、普段より飲むペースすごく遅かったし、頻繁にトイレに行ってたから……」

 私は少し驚いた。あんな泥酔状態で誰彼構わず戯れていたのに、遥佳は私の体調不良に気づいてくれていたのだ。でも、それは何故だ? 単に隣にいたからか? それともどんな状況でも常に私のことを気にかけてくれているという意味か?

 駅が見えた。千鳥足の遥佳は階段を上らないだろう。となれば、手をつないで歩けるのは後数十メートルほど。そこへ到達してしまえば、後は絡まった手を解いて別れておしまいだ。それでいいのだろうか?

 そう思った瞬間、私は反射的に行動していた。「遥佳」と呼びかけ、彼女が「え?」と顔を向けた拍子に激しく彼女の唇にむしゃぶりついた。まるで前奏をスキップしていきなりサビへいくハードロックのような勢いで。

 私は彼女の唇の裏側に舌をねじ込んでぐるりと舐め回すと、彼女の舌を探してさらに口腔の奥へ入った。そしてその熱く濡れたものを見つけ出すと、強引に自分のそれと絡め、激しく吸いついた。さっき食べたドリアのホワイトソースの味がする。粘液が混ざり合い、音を立てて糸を引く。

 ようやく彼女の身体がピクリと反応し、束の間膝から力が抜けたようだった。遥佳は小さく喘ぎ声のような溜息を吐き、それから私の身体を引き剥がした。その目は大きく見開かれ、じっと私を見つめているが、そこに驚愕以外にどんな感情が込められているのかしばらく見つめ返しても読み取れなかった。

「遥佳」
と、私が声をかけると、彼女はその表情のまま踵を返して逃げ去った。さっきまでの千鳥足が信じられないくらいしっかりした足取りで。

 私は追うこともなく、視界から消え去るまでその後ろ姿を見つめていた。だが昂ぶった興奮は少しも収まらず、私の脳は掌、舌、唇など彼女を味わった全ての感覚を自動的に反芻し、可能な限り鮮明に刻みつけようと試みている。

 嬉しさこそあれ、私に後悔は微塵もなかった。明日の朝会社でどんな顔をして会えばいいだろうかと一瞬考えたが、なるようにしかならないだろうとすぐに止めた。

 私は、ともすれば反芻で崩れてしまう表情を意識して引き締めながら、帰りの列車に乗り込んだ。

 その夜、私は久しぶりに清美に挑んだ。一太は既に枕から遠いところへ転がって熟睡していたので、私達はそれを利用して思うさま互いを貪り合った。電気を全て消した暗闇で、一太を起こさないよう声と息遣いを抑えながら愛し合う。が、肉体の絡まる音は抑えようがなく、闇の室内に淫靡に滴る。

 アルコールのせいか、私はいつもより長続きし、清美にいつもより喘ぎ声を抑えさせる苦労を強いながら果てた。

 しばらく疲れて横たわっていた後、清美は満足げにシャワーを浴びにバスルームへ歩いて行った。が、暗闇に残された私の中に渦巻いていたのは虚しさだけだった。

 今日清美を抱いたのは、明らかに遥佳の代わりとしてだった。電気を消すことにより、私は暗闇の中で清美の身体を遥佳だと思って愛そうと試みた。 

 しかし幾度そう思い込もうとしても、味や匂い、リズムの癖や喘ぎ方、身体の重みやぬめりは既によく知った清美自身そのもの。それを無理矢理遥佳だと思い込もうとしたものだから、私の官能はどんどん冷めていき、実際にはアルコールのせいなどではなく、そのせいで長続きしたにすぎない。それ以上続いていたら、果てる前に萎えてしまっていたかもしれなかった。

 そうして私の心は罪悪感でいっぱいになった。私は今の行為で、清美も遥佳も冒涜したことになる。遥佳とキスしたときの喜びや官能は、既に過去のものとして形骸化してしまった。同時に清美との摩擦の余韻すら、今は単なる痛みと疲労にすぎなくなってしまっている。

 シャワーを浴び終えた清美が全裸のまま私に二回目をせがんできたが、彼女があらゆる手段を使っても、私のそれは目覚め立ち上がることはなかった。私が血液検査のせいかあまり調子がよくないことを話すと、清美は渋々納得し、何も着けない四肢を私に絡ませながら眠ってしまった。

 左の耳朶に清美の寝息を感じながら、罪悪感に胸を咬まれながらも、私が考えたのは遥佳が今どうしているかということだった。

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