短編小説「はるかなる」作 清住慎   ~4~

4.

「洋一さんの好きにして」
と、遥佳が吐息のような声で耳元に囁き、私の首に手を回す。私は既に火照りを帯びた彼女の身体を自分の体内に取り込むかのようにきつく抱き締め、それからもう何も身につけていないその背中にそっと指先を這わせた。

「あ」

 と、小さく声を上げ、遥佳がピクンと身を仰け反らす。そのままちょっと目を閉じ、すぐに潤んで妖しげな輝きをまとった瞳を真っ直ぐ私に向けてくる。私はそれを正面から受け止め、彼女の耳の付け根にキスをする。

 すると彼女は敏感に反応し、私の首に回した腕に力を込め、口からは声とも吐息ともつかぬ素直な喜悦を漏らす。その唇はそのまま自ら閉じることなく、私にその内奥まで塞がれることを期待して接近する。私はそれをじらせるだけじらして、互いの中にある欲求を極限まで昂ぶらせてから、いよいよむしゃぶりつこうと自ら顔を寄せていく――。

 ――そのとき、目覚まし時計のアラームが鳴った。

 私は瞬間的に現実の世界へ引き戻された。視界に入るのは遥佳の裸身ではなく、妻と子の、布団からはみ出しそうになりながら寄り添って眠る姿だった。

 しばらくの間、寝顔を見つめてみる。あんな夢の後だけに知らぬ間に寝言など吐いて気づかれやしなかったかと思ったが、その心配はないようだ。二人共正体なく熟睡している。

 掛け布団を蹴飛ばして仰向けになっている清美は、今もまだそれなりの体型を保っている。同年代の女性と比べれば随分ましな方だ。

 結婚前後は連日飽くことなく回数をこなした夜の営みも、今は月に数回程度。年と共に互いの体力と性欲が落ちていった結果自然に得られた間隔で、どちらも不満はない。それも義務としてではなく、互いにしたいと思う間隔が一致したのであるから、する際にはそれなりに燃え上がる。が、一太が目を覚まさぬよう気遣わねばならない点と、回数を重ねるごとに互いを知り尽くし、新鮮さと神秘性が失われていくことによって間隔が空くようになったことも否定出来ない。

 だが、これは世の全ての夫婦が直面する問題だ。そしてたいていは次の三つの選択肢のいずれかへ進む。

 一つ目は、さらなる新鮮さを互いに求め、アブノーマルの世界へ足を踏み入れること。

 二つ目は、夫婦の性とはそういうものだ、仕方ないと諦め、もしくは達観すること。これが一番多いのではないか。

 三つ目は、新たなる神秘性と新鮮さを別の異性に求めることだ。

 私自身正直に言えば、二でも三でもあると言ったところか。

 清美とのセックスに関しては、これでいいや、仕方がない、と時折手順を入れ替えることがあってもやっていることは毎回同じ。それはそれで満足している。

 つまり、私は清美とのセックスに不満があって遥佳を抱きたいと思っているわけではないのだ。客観的には三であり、立派な浮気と扱われても仕方がないが、妻でない別の誰かとやりたいということではなく、遥佳だから抱きたいという恋のような純粋な気持ちからだと自分では思いたい。

 だがそれならば純粋な恋のように会話を楽しんだり、食事をしたりということだけで満足出来るかと問われれば、自分はそれに対してはっきりノーと答えるだろう。

 そんなことよりも何よりも遥佳を抱きたいのだ。他のことは全てなくても、遥佳の裸身を強く抱き締め、彼女を貫きたいのだ。それだけがしたいのだ。他の誰とではなく、遥佳とそうしたいのだ。

 だからこそ、その場面を夢にまで見る。しかし私は幼少時よりかなり夢見が悪く、ほとんどいい夢を見ない。ときに遥佳が夢に出てくることがあっても、その中の行為は全て未遂に終わる。そんな朝は眠る前よりも悶々としてやり場のない気持ちを抱えたまま、家を出るしかなくなるのだ。

 だからといって、プロの女性にお相手願いたいとも、列車の中で痴漢行為をしてみたいという気にも全くならない。

 私が求めているのは遥佳だけであり、それ以外の女性は対象外だ。ソープやヘルスなどはその不潔感のあまり店の前を通るだけでも嫌だし、何よりも愛のない女性を見知らぬ不特定多数の男と性具としてのみ共有するという行為には吐き気すら覚える。

 列車の中の痴漢行為も同様だ。連日のように告発、逮捕される事件は枚挙にいとまがないが、私には何故彼らがそんなリスクを冒してまで触りたがるのか判らない。

 男が女に触るのは、それによって愛情を表現し、その女を喜ばせるためだ。喜んでくれないのに触る奴らの気が知れない。起き抜けの通勤列車の中ですし詰めにされ、不快感を募らせている状態で、見知らぬ男に身体を触られて喜ぶ女が一体どこにいるというのだ。我が身に置き換えればすぐに判ることだ。

 しかし満員列車の中で目と鼻の先に遥佳がいたら、触りたいという衝動を抑えきれるかどうか正直自信がないのも事実だった。

 家を出るのが早くても、会社のある駅に着く頃には学生の姿をちらほら見かけるようになる。朝練か、何かの係になっていて、他の生徒より早く学校へ行くのだろう。
近くに女子大付属の学校があるせいで、セーラー服にマイクロミニのスカートを穿いた女子中高生をよく見かける。階段やエスカレーターなどの段差でなくても、ちょっとプラットホームを走ったり、身を屈めたりするだけで中の下着が露わになるほどの短さだ。

 通勤の往復時、私は日に何度も女子中高生のパンツを目にする。が、それに対して今さら欲情したりしない。恐らくそんな感情は二十代後半に枯渇してしまったのではないだろうか。

 ましてや恥ずかしげに隠しているのが見えるのならまだしも、さあどうぞ、見たいだけ見てと言わんばかりの半ば丸出し状態には興醒めする。それは、よちよち歩きをする赤ん坊のスカートからはみ出ているおむつのようで、全く性欲など覚えはしない。

 若い女であるという、素材の新鮮さだけで欲情していたのは遠い昔の話。今は素材がどうであれ、自分を美しく見せようと努力する女が私は好きだ。それは化粧品を塗りたくるという意味ではなく、例えば子供から大人になりかけの女子中学生が足が痛いのを無理して真っ赤なパンプスを履いて歩いてみるとか、そういう姿を見ると私は可愛いなと思ってしまう。

 また、流行に囚われてみんなと同じブランド品を身につけるのではなく、自分をよく知っていてTシャツとジーンズ、パンプスだけでも自分を魅力的に見せる術を知っている、そんな女に私は惹かれてしまう。

 かつては清美もそうだった。通勤着もデートの服も変わらなかったが、常に自分の魅力が素直に際立つような着こなし方をしていた。今となっては彼女の職域は女よりも母の方に比重がかかっているため、致し方ないことではあるが。

 そんなことを考えながら歩いていたら、あっという間に会社に着いた。そして入口脇に大きなレントゲン車が止まっているのにも気がついた。そういえば今日は健康診断の日だ。ということは……。

 三階へ上がり、ドアノブを回してみる。やはり開いている。人事課の連中が準備のために早出して来ているからだろう。毎年恒例のことだが、この日だけは遥佳との二人きりの朝の時間が楽しめない。

 予め判っていたことだったが、それでもかなり落胆してドアを開けた。軽く目を閉じ、深呼吸して、課長を演じるためのテンションを上げていく。よし。これで大きな声で明るい挨拶が出来る。そう思って室内に身体を入れた瞬間、右腕にドシンという衝撃が来た。

「きゃっ!」
という女の声にすぐに我に返る。ぶつかったのは遥佳だった。私は慌てて、よろめく彼女の背中を抱いて支える。

「ごめん。大丈夫? よく確かめずにいきなりドアを開けちまった」
「いえ。私の方こそ、ぼんやり歩いてたから……」

 私の鼓動は高鳴っていた。それは落胆の中見た彼女の笑顔がとびきり胸に響いたからではない。遥佳の背中に回した腕に、まるで素肌からのような直接的な体温が伝わってきたからだ。

 腕を解きながらさりげなく目をやると、彼女の上半身はTシャツ一枚だった。腕にホックの感触がなかったのは、フロントホックかスポーツブラでもつけているからか。通常のOL的な服装よりも薄く、身体の線がはっきりと判るそのスタイルから、私は視線を外せなくなってしまった。

 遥佳はそんな私の視線に気がつくと、ちょっとはにかんで、
「もう準備が出来たから、いる人から受けちゃってくれって人事が……」
「あ、そうなんだ」
 そう言って、私はようやく彼女の身体から視線を外した。

「桐さん、遥佳が薄着だからってニヤニヤしないでよぉ」
 不意に視野の外から瑞穂の声が飛んできて、私は内心仰天した。表情を崩さないようにするのに少し手間取ったが何とか成功する。

 一方遥佳の方は、さらに頬を赤らめている。
 やって来た瑞穂は何とタンクトップ姿だった。布が薄いためピンク色のブラジャーが完全に透けている。

「お前なあ、幾ら何でも、社内でタンクトップはまずいんじゃねえか?」
 私は少しも興奮を覚えずに言う。
「健診なんだからしょうがないでしょ。女の子は色々大変なのよ。それとも目のやり場に困るからまずいってこと?」
 瑞穂は笑いながら言い返す。

「バカ。薄着くらいで興奮したりしねえよ」
「どうかしら。さっきの遥佳を見る目は結構やらしかったけど? ホントは見たいんじゃない?」
「瑞穂、朝っぱらから課長さん挑発してどうすんのよ。さっさと健診行こうよ」

 遥佳はTシャツ一枚でいることにかなり恥ずかしげだ。それは私の目を意識してのことか、それとも単に衆目に晒すのが嫌なだけか。

「だってえ、面白いじゃない。若い子だと赤くなって目を伏せたりするんだけど、桐さんくらいの年齢になるとどうするのかなって」
「やめなよ。課長さん困ってるじゃない。それに私達がさっさと受診しないと、後がつかえちゃうでしょ」
と、遥佳は瑞穂の背中を両手で押して行こうとする。

「そうかなあ。結構喜んでると思うけど。じゃあもう一度試してみよっか?」
 そう言って瑞穂はくるりと身を翻し、両手で遥佳のTシャツをたくし上げた。
「きゃあっ!」
 遥佳は間一髪、アンダーバストのところに腕をやって胸が露わになるのを食い止めた。

 私は唖然としたまま動けなかった。遥佳は顔を真っ赤にして私の方をちらりと見た。
「もうバカバカッ! 何学生みたいなことしてんのよ。ここは会社の中なのよ」
「アホかお前ら! さっさと健診行って来い!」

 私は内心とは裏腹に、立場上一番相応しいと思う態度を取った。
 瑞穂と遥佳は慌てた足取りで去って行く。

「ホラ怒られたじゃない。何考えてんのよ、瑞穂」
「でも喜んでたよ、桐さん。あれって照れ隠しじゃない?」

 彼女達は社内の注目を浴びながら、エレベーターホールへ向かって行った。まずはレントゲン車で撮影の後、八階にあるこのビル全体で共用の大会議室に待機している医師団の診察を受ける。

 私は彼女達の声が聞こえなくなってようやく安堵の息をついた。彼女達を追い払ったのは、これ以上薄着の遥佳を目の前にして理性を保てる自信がなかったからだ。それに瑞穂のようなストレートな物言いは周囲にあらぬ誤解の種をまく恐れがある。まだ何もしていないのに二人の間が気まずくなるようなことがあっては困る。

 私は自分の席に向かって歩き出し、周りと朝の挨拶を交わすことで表向き会社員としての姿勢を取り戻した。しかし脳裡では先程の遥佳の薄着姿をしっかりと刻み込む作業が行われており、心はそれを今夜のおかずにしようと決意しときめいていた。そして健診の順番が回ってくるまでに何とかして自らの下半身を鎮めることが当面の課題であった。

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