短編小説「はるかなる」作 清住慎   ~6~

6.

 翌朝、私は少し緊張して会社のドアを開けた。

 いつも通りならば、遥佳はあと数十分後に出社して来るはずだ。やはり今日は気まずくなるだろうか? 

 としても特に対処方法はない。結局は普通にしているのが一番いいのだ。私が変に意識すれば、彼女も困ってしまうだろう。

 私はいつものようにコーヒーを入れ、パソコンに向かってメールのチェックを始めた。

 しばらくして、ドアノブがカチリと回る。私の身体はそれにピクリと反応する。あえてドアの方は見ずに、少しディスプレイへ身を屈める。

「おはようございます」

 いつもと変わらない、明るい遥佳の声が耳に入る。私はゆっくりと顔を上げた。遥佳と目が合う。一瞬互いに固まったが、すぐに元に戻り、彼女は自分の席へ、私は挨拶を返してからまたディスプレイに向かった。

 胸の鼓動が早くなる。目が合った瞬間に判った。

 遥佳も私を意識している。今までの私の素振りから察していなければ、彼女は何故私がキスしたのか疑問に思っているだろう。私はそれを説明しなければならない。

 そうしなければ、私の思いのありったけを込めたキスが、単なる酔った勢いのふしだらな行為になってしまう。そう思ってしまえば、きっと遥佳は私のことを軽蔑するだろうし、もう飲み会で彼女の隣に座らせてはもらえなくなるだろう。

 だが同時に、説明をすることは彼女に選択を迫ることでもある。私の気持ちを知った彼女は、私を受け入れるかどうか答えを出さなければならない。

 私が既婚者であることを考えると、可能性としては私に分が悪い答えが返ってくる方が高いのだが、今までただ気づかれぬように見つめ、自慰に耽るだけだった状況をキスという行為によって動かしてしまったのは他ならぬ自分である。

 遥佳が植木に水をやりに、私の机の前までやって来た。しかしこの場で「昨日のキスは……」とやるわけにもいくまい。どうするか。

 葛藤しているうちに遥佳は水をやり終えてしまった。

 この朝のうちに何らかのリアクションを起こさなければ、二人の間は当分気まずいままになってしまうだろう。そうなれば、社内で誰かに気取られる可能性が高くなる。

 遥佳が自分の席の方へ歩き出した。早く何とかしなければ。

「遥佳」
と、私は突然声をかけた。次に何を言うべきか全く考えずに。

「はい」
 しかし遥佳は特に驚きもせず、いつも通りの落ち着いた声音で返す。まるで私に声をかけられるのを待っていたかのようだ。

 彼女の視線に射すくめられて、私の口は動かない。その瞳が私を責めているようにも見えるし、受け入れてくれているようにも見える。そのすぐ下の淡いピンクの唇を見ると、昨夜のキスを思い返して身体が熱くなる。

 あれはちょっと勢いで唇がぶつかっただけ、なんて言い逃れが通用しないほど激しいものだった。舌をねじ込み、粘液を絡め合う動作はどう見ても意図的なものに他ならない。

 私の思考が遠回りをしていても、遥佳は辛抱強く私の次の言葉を待っている。

「遥佳、来週あたり、飲みに行かないか?」
 ようやく私が絞り出した言葉はたったこれだけだった。

「うん」
と、とりあえず遥佳も頷いてくれた。よかった。とにかく後日ゆっくり話す機会が持てることは、どちらにとっても大切なはずだ。

 私と遥佳は視線を解き、互いの仕事に戻ろうとした。そのとき、どやどやと社員の一団が戸口に現れた。私が努めて何ごともなかったかのように振る舞おうとしているのに、一団の中の山田がそれを台無しにする素っ頓狂な声を上げた。

「あーっ! 課長、昨日遥佳ちゃん、どこにお持ち帰りしちゃったんですかぁ?」

 私は飛び上がらんばかりに驚いたが、努めて平静を装った。お前はいつまで飲み会のテンションなんだ!と、よほど言ってやろうかと思ったが、ふと気がついた。

 今の山田の言葉、遥佳は私とのキスの後、飲み会に戻らなかったのか? 

 あまりのことに戻れなかったのも判らないではない。が、それに対して私は答える術がない。私が真っ直ぐ帰ったと言い返しても素直には信じないだろうし、それをネタに再び騒ぐだけのことだ。

 私はちらりと遥佳の方を見た。彼女も、今の山田の言葉でようやくそう思われても仕方のない状況だったと気がついたようで、慌てながら言い返した。

「バッ……、な、何言ってんのよ、山田君」
「だって昨日、課長送ってった後、戻って来なかったからさ」
「それは……、私も真っ直ぐ歩けないほど酔いが回ってたから、こりゃヤバいと思って帰っただけよ。……ごめんなさい、みんなに連絡しなくて」

「ホントですか? 課長」
と、山田が私に水を向けてきたので、

「ああ。駅の階段の下で、遥佳とはすぐに別れたよ。なぁ」
私は遥佳に同意を求める。

「ええ」
と、彼女も相槌を打つ。

「はいはい。もうこの話はおしまい。朝の清々しい空気が台無しよ」
 一団から進み出てそう言ってくれたのは瑞穂だった。

「山田、アンタも昨日のことで未練たらしいな。また次の飲み会開けばいいだろ?」
「……そうだけどさ」

 瑞穂にそう言われ、山田のテンションは急激に下がった、というか元に戻ったようだ。フロア内も、いつもの始業前の気配に戻っている。とにかく、瑞穂のおかげであらぬ疑いで噂にならずに済んだのは確かだった。

 机に向かい、しばらく仕事にかかっていると、遥佳からメールが来た。タイトルには、「三宮です」とだけある。開いてみると、次のように数行書いてあった。

 先程の飲みに行く件ですが、やっぱり行きません。気軽に頷いちゃったりしたけど、ごめんなさい。決めました。遥佳

 私は立ち直れないほどの激しいショックを受けた。仕事中だという意識を忘れて頭を抱えたいほどに。

 何ときっぱりとした拒絶の言葉。彼女は私からあのキスの理由を聞く気はないということだ。

 それはつまり、私の気持ちを受け入れないということだ。「行けません」ではなく、「行きません」としてあるところ、「ごめんなさい」と言いつつも、「決めました」と書いてあるところに、やんわりとではない、明確な意志の強さが表れている。

 私はこの先、遥佳への思いをどうしたらいいのだろう。途方に暮れる。昨夜のキスというたった一つの行為から、たった一日で、私の望みはあっけなく打ち砕かれたのだ。

 しかし考えてみれば、よほどの理由がない限り、妻子ある身で恋愛をすれば、遅かれ早かれこうなる運命だったのだろう。自分自身が幾多の障害を越えて愛されるような特異な魅力ある人間だなどと自惚れてもいない。となれば、これは当然の帰結。そう考えれば、今日一日勤務時間中くらいは平静を装える程度には精神を救済出来る。

 だがそれは、遥佳への思いを冷ますことには全くなっていないのだ。

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