短編小説「はるかなる」作 清住慎   ~3~

3.

 株式会社ルビアは、社員総数五十名程度の不動産管理会社である。誤解されやすいが、土地や建物を売買したりするのではなく、アパートやマンションの管理や清掃、施設維持など、言ってみれば管理人の仕事を請け負う会社である。

 ビルの二階と三階を借りきっており、二階には実際に管理業務を遂行する部隊、三階には営業と事務部隊が入っている。
 私は庶務部総務課の所属で、三宮遥佳は経理課の所属である。席は離れているため、日中仕事以外で話をすることはほとんどない。

 既に始業時間は過ぎている。特に朝礼などは行わないので、時計のアラームと共に各自仕事を開始する。

 すぐに電話が鳴り始める。総務課は会社の代表番号を取り扱うので、外線が次々に入ってくる。一応私は長年いるおかげで課長という役職を頂いているが、他の課員だけで追いつかなくなると私も電話を取ることになる。今のところ電話応対の人数は足りているので、私は自分の仕事に専念出来る。

 ふと経理の方へ視線をやる。経理も電話応対に忙しい様子だが、鳴っているのは内線だ。社内からの仮払い申請への対処、出張費の精算の仕方、各種税金の問い合わせなどが内容のほとんどだ。それと同時に二階の管理部隊の人間が仮払金を受け取りに来たり、領収書を持って来たり、ひっきりなしに人が出入りするようになる。

 遥佳はといえば、伝票と引き替えに二階の人間に仮払金を渡しているところだった。

 彼女はいつも、仕事で人と話したり、ものを受け渡したりした最後に、「よろしくお願いします」とにこやかに笑う。その笑顔が彼女の人気の秘密。初めて相対する人間は、まずその笑顔に魅了される。しばらくやり取りを繰り返すと、そのきめ細やかな気配りに感心し、それが自分だけ特別優しくされているのではないかという錯覚に変わるが、冷静に回りを見ると皆同じだと気づき、やがて彼女の一ファンになる。

 若い連中には、それよりも進んだ関係になりたいと迫った者は幾らもいたが、社内恋愛を良しとしない信条だったのか、単に眼鏡にかなう相手がいなかったのか、彼女はその全てを断ったようだ。

 今も遥佳は、お金を渡した後ににこりとやっている。

 いつからか、その笑顔が自分以外の男に向けられているのを見ると、私の胸は痛むようになった。無理なのは判っているが、あの笑顔を独占したくてたまらない。その上、出来うるならば、あの笑顔を快楽の苦悶で汚したい。

 新卒での入社当時から、私は遥佳が気になっていた。そしてその錯覚に速やかに陥ったのも認めよう。だが最近になって私の思いがこれほど強くなったのには、根拠がないわけではないのだ。

 部署内の飲み会は結構頻繁に行われる。私はそれなりに飲める方だし、立場上かなりの頻度で出席している。純粋に酒好きな遥佳はほぼ皆勤賞の勢いだ。

 特に幹事などという者はおらず、誰かが「今日飲もうか?」と言い出せば、誰かが「いいねえ」と応じる。そしてその思いつきに賛同する者の輪が広がって、まとまった数になるだけのことだ。場所だって会社のすぐ近くか、駅前の居酒屋という、予めある選択肢の中からたいていは決まる。時間を決めてばらばらと集まり、お疲れさまの乾杯をする。

 いつだったか本当に思い出せないのだが、ある日一杯目の中ジョッキを合わせているときに、ふと気がついたのだ。そういえば、酒の席では遥佳はよく私の左隣にいるな、と。それ以降、私はちょっと意識して飲み会に臨むようになった。

 私は飲み会の席に着くのはいつも最後の方だ。だから開始ぎりぎりの時間に暖簾をくぐることになる。そうすると、たいてい遥佳の右隣が私の席として空けてあるのだ。明示してあるわけではないが、そこしか空いていないのだから、最後の出席者である私がそこに座るのは必然だ。特に意識していなかったときには、全く気がつかなかったのだ。

 座ったら座ったで、飲み物のお代わりとか、つまみの取り分けなどこまごまと世話を焼いてくれる。それも一回ごとにあの極上の笑顔に、「はい、桐さんどうぞ」と、肩書きではなく名字で呼んでくれるサービスつきだ。

 隣にいるからといって、特別二人だけの会話をするようなことはなく、意味ありげな目配せを交わすこともない。それでも私は飲み会の度に幸せを感じ、ますます彼女へ心の傾斜を深めていくのだった。

 それ以来、私の飲み会への出席率は百パーセントである。

 残念ながら今日は遥佳とは仕事上の会話もなく、いつも通りの慌ただしさの中あっという間に就業時間は終わった。今日は飲み会の誘いもない。

 私はタイムカードをレコーダーに通し、会社のドアを出た。すると背後から、
「課長さん、傘は?」

という声が追いかけて来た。振り返ると、戸口の傘立ての前に遥佳と瑞穂が立っていた。声をかけてきたのは遥佳の方だ。

「あ、そうだ。すっかり忘れてた」
 私は傘立てへ戻る。退社時に雨が上がっていると、ついうっかりしてしまう。

「桐さん、もうボケ始まっちゃってる?」
 瑞穂が笑いながら遠慮のない言葉を投げつけてくる。彼女はいつもこうだ。瑞穂は遥佳の一年先輩だが、タメ口でどつき合えるくらいこの二人は仲がいい。瑞穂は美人系でグラマーなのだが、きっぱり、はっきり、さっぱりという性格のせいで遥佳ほど人気者ではない。が、私は好感を持っている。

「瑞穂、お前そんなに口悪いと、誰も将来世話してくれないぞ」
「よけいなお世話ですう。まだ当分独身貴族を楽しむつもりでいますから」
 瑞穂は目いっぱい舌を出して言い返した。

「課長さん、駅まで行きましょ」
と、遥佳が言った。

「ああ」
私は頷いた。朝の挨拶以外に会話が出来て、私はちょっと嬉しくなった。

 私達は繁華街の中を、遥佳を真ん中にして並んで歩いた。並木道は、私達と同じような会社帰りや学生達、ビラやティッシュ配りなどでごった返している。

「そういえば、明日健康診断よね」
と、瑞穂が歩きながら言った。

「そうだっけ」
と、遥佳が返す。

「そうよ。忘れるわけないじゃない。去年の体重を下回るために、私一ヶ月以上前からダイエットしてるんだから」
「へえ。女の子達はみんな、健診の度にそんな涙ぐましい努力をしているの?」
「ううん、私は別に。っていうか、そんなことしてるの瑞穂だけじゃないの?」
と、遥佳。

「失礼ねえ、そんなことないわよ。だって健康診断の結果は記録に残るのよ。それが毎年増えていたら嫌じゃない?」
「別に。私たいして変動しないし」
「そうなのよねえ。それが納得いかないわ。あんた普段ろくに運動しないくせに、何で太らないのよ」
 瑞穂は溜息をつきながら呟く。

「何でって言われても……、体質よ、きっと。両親に感謝しなくちゃね」
 遥佳はおどけて両手を合わせ、目を閉じた。
「別にそんなに健診の数字にこだわらなくてもいいんじゃないの? 公開するわけでもないんだし」

と、私が遥佳の頭越しに当たり前の疑問を口にすると、瑞穂は、
「ほっといて下さい。それが私のポリシーなんです。そのために最近は飲むのも控えてるんですから」

「ふーん」
 ふと私は思いついて、突然遥佳の肩を抱き寄せた。
「じゃあ遥佳、今日は二人で飲みに行こうか。この前見つけたワイン・バーなんかどうだ? たまには私がおごるよ」

 私がニヤリとして遥佳の目を見ると、勘のいい彼女は私の腕に自分のそれを絡めて、
「本当ですかあ? あそこ年代物の銘柄がずらりと並んでて、美味しそうだし、雰囲気もよさそうですよね。嬉しいわあ」
と、合わせてくれる。

 瑞穂は大のワイン好き。そのワイン・バーもこの前の飲み会の帰りに偶然見つけ、絶対今度はここでやろうと瑞穂が言い出した店だ。

 私と遥佳が瑞穂の方を見ると、
「もうっ! 二人共、そういういじめは悪質よ。私が子供なら、これがきっかけで非行に走るわ」
と、悔し笑いで言い返したので、一同で笑ってしまった。

 私はかなり名残惜しかったが、必要以上に長い腕の絡め合いに遥佳が不審を抱く前に自ら腕を外した。

 彼女の肩に触れた掌、彼女のそれと絡まった自分の腕のその部分には、きっと彼女の匂いがついているだろう。私はそれを矢も楯もたまらず嗅ぎたい衝動に駆られたが、その行為は彼女達の目にかなり奇異に映るだろうと思い、必死に堪えた。

 匂いは官能に多大なる影響力がある。その匂いを嗅ぎ取っていれば、それを記憶しておいて今夜の楽しみに……と思っていたのに残念でならない。

「では、お疲れさまでした」
 不意に遥佳が言ったのでハッとした。考えごとをしているうちに、彼女の乗る地下鉄の入口に着いていたのだ。

「じゃあ、また明日」
「お疲れさん」
と、口々に言うと、残った瑞穂と私は高架橋の階段を上った。瑞穂は私と同じ路線を使うが、方向が正反対なので、一緒なのは改札を通ったところまでだ。

 階段には整列の影も形もなく、上下ごちゃ混ぜに大勢の人間が行き交っていた。そのため、私と瑞穂は特に会話をすることなく改札を通り抜けた。

「じゃあ、お疲れさん」
と、私が軽く手を上げてプラットホームへの階段を下りようとすると、瑞穂は笑って、
「桐さん、今度健診終わったら飲みに行きましょ」
と言って手を振った。私が「今度な」と返したときには、既に彼女はエスカレーターに乗った後だった。

 今の瑞穂の言葉はどういう意味だろう。私と二人で、という意味だろうか? いや、きっとまた飲み会をやりましょう、くらいの意味だろう。

 私は過去の経験から、自分がもてる人間ではないということを知っている。だから私は、女の言葉を自分の都合のいいように解釈しない。

 列車に乗り、寒くもないのに押しくらまんじゅうをやらされているうちに精神の救済のために文庫本を開き、それに没頭するうちに速やかに瑞穂とのやり取りは頭から消え去ってしまった。

 仕事よりも重度の疲労を与えてくれる通勤列車から解放されて、我が家の扉の鍵穴にキーを差し込む瞬間、当然妻と子との団欒をまず第一に考えるのだが、もっとも楽しみなのは、遥佳と絡めた腕の温もりを思い、深夜自慰に耽ることなのだった。

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