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祖母に首絞められた「ペルー人でもあり、日本人でもある」

はじめまして。タイトルの通り、ペルー人でもあり、日本人でもあるSanaです。
今月に入り、noteでいくつか記事を書いたのですが、一番初めに書くべき自己紹介をしていなかったので、今回は自己紹介、そしてハーフとしての自分について述べていきたいと思います。タイトルの首絞め事件は、後ほど「祖父母からの嫌がらせ(首締め事件)」で述べます。


自己紹介

母親がペルー人、父親が日本人のハーフ(ダブル)で愛知県碧南市生まれ、二重国籍。うちは、所謂転勤族で岡崎、蒲郡、知立…と転々として小学校2年生の時に、祖父が住んでいた高浜市の実家に一緒に住むことになり、それからはずっと高浜市民でした。

ペルーには、幼稚園の時に1年間、小学校3年生から毎年3ヶ月ずつ(5年生の時は半年)、中学校からは毎年1ヶ月半ずつ、大学に入ってからは春休みの期間を利用して行きました。

基本的に学校は日本で、ペルーにいる間は現地の学校に通う時もありましたが、家庭教師か外出しないで実家で延々と日本の学校の課題をやっているという感じで過ごしました。日本人学校には行きませんでした。

ペルーの大学に進むか悩んだものの、名城大学都市情報学部に入り、春休みの期間はペルーのSan Martín de Porres大学のIVUC(Instituto de Vivienda, Urbanismo y Construcción住宅、アーバニズムと建築の研究室)に入れてもらって、自分の勉強している分野のスペイン語能力を伸ばしつつ、学部を卒業。

名古屋の都市研究所スペーシアというコンサルでまちづくり に関わる仕事をやらせてもらいつつ、着々とバルセロナ大学の受験準備をして、2019年9月から晴れてバルセロナ大学都市デザインの大学院生に。

そして今、残り半年で卒論がうまくいけば、2020年2月にバルセロナ大学慧デザイン修士卒業となれると。
因みにテーマは「都市生活において水辺空間をいかに人間は楽しむことができるのか。バルセロナ ・ベゾス川を事例に」というような感じです。(実は、学部の卒論と内容が変わっていない…ペルーのリマク川からベソスになっただけ)

画像1写真:「リマク川の様子、2017年」BY Sana

ハーフと名乗らせてください

とても長い自己紹介でしたね。学部時代に頑張ったこととか、海外研修とかまだ色々書きたいんですけど、それは他の機会に置いてといて、本題のハーフとしての一面について触れていきたいと思います。

本当はダブルと言った方が両方の国を備えているという意味で正しいのですが「ハーフ」と言うのに慣れてるし、半分て言う意味で良くないのも頭ではわかっているのですが、言い慣れすぎてダブルていうのが恥ずかしいです。そのうち、慣れてきたらダブルと名乗るので、今はハーフだと名乗らせてください。

ハーフだと認識した時

自分がハーフと知ったのは小学校2年生の時でした。

まぁ、ハーフと知ったと言うより「あ、お母さん外国人なんだ」って言う感じ。

それまで、親がスペイン語を喋っているところもあまり見かけなかったし、母はそんなに顔が濃いわけでもないので(日系人ではないし、純ペルー人)、おじいちゃんとおばあちゃんに日本語が通じないのと、母がペルーに私を連れて行かないといけないからと言われたのかな。この辺の記憶はもう曖昧なんですけど、次の日に学校に行って友達に話したら「お母さん、外国人なんだね」と言われてから、段々認識していった。

ちょうどその日、パスポートの手続きをするために、早退することになって、母が迎えに来て、クラスメートが階段のところで「バイバイ、元気でねー」とか言ってサヨナラしたのに次の日、普通に学校行くことになって気まずかったことだけ鮮明に覚えてる。

何故、ハーフだと認識するのに時間が掛かったのか

はっきり言って、団体行動を強制させる日本の教育が問題だと思ってます。

私の母は、なるべくスペイン語を私の前で話さないようにしていました。

実は、私の通っていた碧南幼稚園(もう潰れました)の園長先生が当時母にこんなことを言っていたそうです。

「この子にスペイン語を教えてしまうと、
将来いじめに合う可能性があるので、
絶対に教えないでください」

やばくない?
スペイン語は将来役立つとか思わなかったのかな

母曰く、当時の日本人は物凄く外国人に対して偏見があったのだとか。
例えば、私の祖父は母のいない所である事ない事を言いふらしたり、近所の人は母があまりに物静かだから、娘の私のヤラシイビデオを見てるとか変な噂をたてられたり…実際はパソコンで働いていただけなのにね…

まぁ、小学校3年生の時に、今の実家があるところに引っ越して、そこで日系ブラジル人のクラスメートとかにあったりして、段々自分みたいなのを「ハーフ」って言うんだって認識しました。当時はテレビでハーフタレントとか、あまり居なかったし「ハーフ」という言葉も新しかったのかも。

しかし、園長先生がそんな事を言ったのも理由があると思うんですよね。実際、ハーフとして育った義務教育の期間は「ペルー」と国名で呼ばれたり、他の子よりうまく日本語が話せなかったことをからかわれたり、「国に帰れ」と言われたり。

転校初日は、あんなに優しかったクラスメート達も、授業参観で母が来て、ペルーとのハーフだと知った日には一気に馬鹿にするような態度を取るようになったのは今でも覚えてます。

集団心理ですかね、彼らにとって、聞き慣れない国とのハーフが異質に見えたから排除しようと思ったのですかね。

椅子を投げられたり、階段から押されたりという日もありましたね。学校から家が近かったので、学校を脱出して家に帰って母に告げ口して毎回大問題にしてましたけど。

もしかしたら、園長先生はそれを見据えて、日本人として育ててしまおうと考えたのかもしれないとも思います。


スペイン語を勉強し始めたキッカケ

小学生2年生の時に母が私を母方の叔父達のもとへ連れていくようになりました。私は理解のできない言語で話す、体の大きい叔父3人が怖くて、会うたびに嫌がっていたとか。

画像2写真:「叔父3人、2002年」BY Sanaの父

そこで母は、これは良くないと思い、教会で南米から来たスペイン語が話せない子供達のためにスペイン語教室を開きました。

母に行動力があって本当に良かった。
これが無かったら、今頃、日本語しか話せないハーフのうちの1人になってた。

当時はまだ小学校で英語教室も始まってなくて、アルファベットも書けなかったから、ひたすらプリントで書く練習。何故か、教室のルールで筆記体で書くことが絶対だったから大変だったな。

語彙力を増やすためにも、スペイン語の映画を見たり、家中にスペイン語カードが貼られまくった。服が入っているタンスには「ropa(服」、ノートには「cuaderno(ノート」と言った感じ。

祖父母からの嫌がらせ(首絞め事件)

これは私が赤ん坊の時の話ですが、
母がまだ祖父母が自分に偏見を持っていると気づく前、同じ家に住んでいたので、買い出しに行くために祖母に私の子守を任せたそうです。
買い物から帰ってくると、2階から私の凄まじい泣き声がしたらしく、急いで駆けつけると、祖母が私の首をしめていたとか。慌てて、祖母の手から私を救い出したそうです。

それから、恐ろしくて直ぐに父と一緒に家を出たそうです。

この話を聞かされたのは、中学生くらいの時でした。
それから、一切祖父母には近寄ろうとは思えなくなりましたね。
首を絞めた理由は、外国人の孫にゆくゆく遺産が渡るのが嫌だったのか、父には姉がいたので、そちら側の孫にだけ与えたかったのか、祖母は亡くなったので分かりません。

道理で、小学生の時など母の帰りが遅い台風の日などに祖父母の部屋に居たりすると、母に「近寄るなって言ったでしょ!」と叱られたりしたわけだと思いましたね。

祖父も祖父で、中学生の時に何度も風呂に入ってきたりして、嫌でしたね。
「あ、入ってたか」って言って出ていくんですけど、入る前から電気と音で分かるでしょって思ってましたね。

これらの嫌がらせは、私がハーフだからなのかは分かりませんが、従姉妹は御年玉貰ってるのに私は貰ってなかったし、同じ家に住んでいるのに何度も叔母家族が訪ねてきて、祖父母の部屋など一階部分が主に祖父母の生活スペースだったのですが、掃除を手伝おうとしても頑なに「いいから。私たちがやるから」と言われ、母はハブられている感じでしたね。

食事を一緒にすることも無かったですね。

これらが、私がハーフだからなのか、母が外国人からなのか、遺産を私たちに分けたくないからという思いからか、単に別家族という認識から他人に気遣わせたくないという考えなのか、分かりません。

まぁ、祖母の行動はどんな理由があっても許せないけどね。


画像5写真:「母主催のペルー 建国記念日パーティ、ピンクのシャツが私。2002年」BY Sanaの父

ハーフとしての自分

まぁ、これまで長ーい人生(24年間)を歩んできたわけなんですけれども、良いことも悪いこともありました。

悪いこと

「ペルー」というイメージが丸々テレビで放送されるイメージを持っている人が多い。
それが原因でからかわれたりするんですよね。大人でも「ペルーって電卓ないでしょ」「ペルーって道路あるの?笑」「お前も藁の服着てこいよ」とかね。

よく日経ペルー 人と勘違いされる
悪いことでは無いんですけど、日系人についての理解がなさ過ぎると感じる時がありますね。日系ペルー 人や日系ブラジル人は、戦後に日本で仕事が無くて、主に南米が人手不足だった時に南米に渡った日本人やその子孫のこと。両親の一方もしくは両方が日本人にルーツを持つペルー・ブラジル人、または、日本国籍を持っていたがその後ペルー、ブラジルに帰化した人物を指します。

もし、私の父が戦後ペルーに行って、母との間で私が生まれて、そのままペルー人として生きていたら、今世の日系ペルー 人ということになりますが、日本で生まれているし、帰化してないし、どちらの国籍も捨ててないので日本人でもありペルー 人でもあるという事になります。

まぁ、ある意味「日系ペルー人」「ペルー系日本人」という事になるんですかね。

ラテン系だから軽い女だと言われる
「ペルーだから情熱的なんだろう」とか、ある事ない事言われましたね。あと外国の方に「いい組み合わせだ(Buena mezcla)」と言われることもあるんですけど、この「mezcla」が「混合」ていう意味なんですけど、「conbinaión(組み合わせ)」と言わずにこの単語で言ってくる感じが何か犬扱いされている感じがして嫌なんですよね。個人的意見ですけど「いい雑種だね」って言われている感じがするんですよね。

ペルー人やブラジル人に言い寄せられた時があって、感覚の違いというか、ペルー人だけど日本人の考え方も持っているし、日本人な時もあって合わなかったり、日本人の方と付き合っても、ペルー人みたいな対応を求めたい時もあって合わないみたいな時がありました。

当時、何人かに「情熱的だと思っていたのに、意外と落ち着いているんだね。俺の方が情熱的になりそうだ」と言われて、何かショックでした。
付き合う前から「ハーフ」という肩書に騙されてたのかなって。

両方の国で受け入れられてもらえない
日本で散々「ペルー」とからかわれ、いざペルーの学校に通っても「空手やる?(karate空手 と calata裸 を掛けてからかっている)」と言われたり、ペルーの大学に通っていても、母のいないところで近所のおばさんに捕まって「あなたの母親がどれだけあなたがペルー人だと言っても、あなたは日本人よ。ほほほ」と言ってきます。

まだ、いろいろあるんですけど、悪い点はこの辺にして、良い点に行きましょう。

良かったこと

良かったことは、母がペルーの文化や歴史、言語をちゃんと教えようとしたこと。
これが一番かな。これが無かったら今の自分は無い。ペルーの大学にも行けてないし、バルセロナ大学にも入れてなかった。

スペイン語をかじっていたから、英語の勉強がちょこっと楽だった。
まぁ、これは母がスペイン語を教えてくれてたからというのが大きいですね。感謝です。

画像3写真:「母主催のペルー 建国記念日パーティ、赤いスカーフを腰に巻いているのが私。母は黄色い衣装。2002年」BY Sanaの父

二つの文化を学べた。
文化に関しては、日本より遥かにペルー人っていう感じ。父はあまり、私に日本の文化を教えようと行動しなかったというか、聞かれるまで教えないというか。日本の文化を感じたのは成人式、卒業式、子供の日、雛祭り、花見くらいですかね。それに比べて、母はスペイン語教室を開いてから火がついたのか、大々的なペルー建国記念日のイベントを開催したり、私をダンス教室に通わせて、自らも日本でペルーのダンス教室を開いたり、ペルーの歴史、自然に関するビデオを買い漁っては私に見せたりと、日本舞踊はできないけど、ペルーの伝統的なダンスなら7つくらいできるかな。

画像6写真:「母主催のペルー 建国記念日パーティ、愛知県でこれだけの規模の建国記念日イベントが開催されたのは初めてだったらしく、当時、日系人の新聞(KYODAI)にも掲載され、インタビューもされた。2002年」BY Sanaの父


総合的に可能性が広がったところが良かったと思っています。


画像4写真:「愛知登録有形文化財の川田家住宅であんばようさんのお花見サロンに参加した時の写真。2019年」BY Sana

結論

確かに、嫌なことも沢山あったし「完全な日本人だったら悩まなかった」とか、ネガティブに考えた時期もあったんですけど、それ全部のおかげで今の自分があるのも事実。

これからも、日本人でもあるしペルー 人でもあると主張するつもりです。
母は、まだまだ外国人に対する不信感が残っている時から努力して、私にスペイン語と文化を教えてくれたので、それを生かして、馬鹿にしてきた日本人のクラスメートを超えられるだけ超えて、前に進んで行きたいと思っています。

いつか彼らが私を見下したように、私も彼らを堂々と見下せる日が来たらいいと思いながら、自分の能力を最大限活かして、自分の欲を満たした結果が誰かのためになればいいと思っています。

長くなってしまいましたが、noteではハーフとしての体験や自分が学んでいるバルセロナの都市デザイン、バルセロナでの生活について書いていこうと思っています。最後まで読んで頂き、ありがとうございました。

画像7写真:「スペイン、タラゴナで友人に撮ってもらった一枚。2020年2月」










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