どの翻訳が
翻訳のおかげで外国の小説や映画を日本語で楽しめる。
これはとてもありがたいのだが
それでも時々同じ小説などを別の翻訳で読むと
同じ部分が違う日本語になっていて戸惑うことがある。
例えば
エド・マクベインの87分署シリーズ。
名作「クレアが死んでいる」に出てきたデートの回想シーン
「気の滅入る虫はどこにいるんだろ?」(加島祥造訳)
その回想シーンは同シリーズの「通り魔」にもあって
そこでは
「自分の心の中にひっこんで、なにを考えているんだい?」
(田中小実昌訳)
エド・マクベインは「クレアが死んでいる」から読み始めたのだが
シリーズ何冊目かで「通り魔」を読んでいたとき
おやなにかちがう…と確かめてみたのだ。
これだと日本語でも大体同じことを言っているので
訳文が好きかどうか、のはなしなのだが
もやもやしてるのが
映画「わんぱく戦争」の最後のセリフ。
隣村同士で腕白な男の子たちが戦いごっこで張り合って
とうとう両方のガキ大将が親に全寮制の学校に入れられ
それが偶然に同じ寄宿舎だったので再会して言うセリフが
最初に見た映画では
「これからはせいぜい仲良くしようぜ
大人になればどうせ馬鹿になるのさ!」
このセリフがすごく好きで強く印象に残っていたのだが
そののち別の機会に見たものでは
「大人も思ったよりバカだ。」
最後のセリフ、期待してたのに!
で、気になって他の翻訳を探していたら
「おれたちも大きくなったら
やっぱりやつらみたいな馬鹿なまねをするのかなあ!」
というものまで出てきた。
これはー、ずいぶんー、違うでしょうー。
原文ではどうなっているのか
とても気になるのだ。
また
翻訳は翻訳者によって文章の意味だけでなく
語り口も違って・変わることがある。
物語には語り口と言えるものがあって
それが海外の小説を翻訳で読む場合には特に
その小説が好きかどうか・面白いかどうかが
翻訳者の“語り口”が半分くらいは点数になっていると思う。
映画にもなった
「火星の人」アンディー・ウィアー著 小野田和子訳
は、その最たるものだと思う。
いや、確かにすごく面白い話なのだけど
この本を面白くしているのは主人公の“人となり”が大きくて
で、“人となり”を表しているのって
“語り口”なんだよね。「イエィ!」(とマネしてみる)
というワケで
本を買うときに翻訳者で選ぶことがある。
それは、たまたま手に取って見て面白かったのが
同じ翻訳者だったことがあって
その後しばらくその翻訳者が翻訳した本を追いかけたことがあった。
それが
相原真理子と青山南。
これくらい有名な翻訳者になると、作品を選べるのだろうか。
それとも、いい作品はいい翻訳者に、なのだろうか。
両方かも。
相原真理子はパトリシア・コーンウェルの「検死官シリーズ」でハマったが
海外ミステリだけでなく「ターシャ・テューダーの世界」の表紙に名前を見たときはちょと驚いたが、惜しいことに2010年に亡くなってしまった。
青山南は「私たちはなぜアメリカ人なのか」の翻訳で出会って「ネットと戦争」を読んでから追っかけ始めた。
で、絵本の「算数の呪い」と「たのしいホッキーファミリー」で名前を見て
あらら、こんなところまで♪と驚いた。
(ちなみに、何年も女性だとばかり思っていたw)
「物は言いよう」、は、ホントなんだぜ!イエィ!
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