見出し画像

アンディー・ウイアー

読書
言語
勉強
コミュニケーション

「プロジェクト・ヘイル・メアリー(上)(下)」
アンディー・ウイアー:著 小野田和子:訳 早川書房
を読んだ。
「火星の人」でハマったアンディー・ウイアーは続く「アルテミス(上)(下)」も読んでいる。翻訳は同じく小野田和子で、この著者の語り口はこの翻訳者の手腕で生かされているのだと思う。

「火星の人」は映画にもなっていて見た方も多いと思うが私はまだ観ていなくて、というか原作でお腹いっぱいなのと原作の語り口と映画のセリフと字幕とのせめぎ合いに消耗する自分が見えてしまう。原作と映画は別物であります。
で、この「火星の人」はたった一人火星に取り残されてしまった主人公が地球に生還するために自分の科学知識と科学的思考と身体を粘り強く駆使するワケだがそこには物語にありがちなどろどろの心模様や人間関係はそぎ落とされていてまさにこれが科学・技術の考え方・やり方という内容でああそうか科学・技術の考え方・やり方で物語を満たすために主人公は遠い火星に一人で取り残されたワケだし無駄な感傷に浸っている余裕はない状況に置いたワケでまさにクールでスマート-あっ
要するにこの「火星の人」は
「自分の頭脳と身体を粘り強く使え」
「それに足るだけの科学と技術を身に着けている自分を信じろ」
だと私は読んだ。
そして
この「火星の人」を読んでいて思い浮かぶのは中学生の時に出会ったマイケル・クライトンの「アンドロメダ・ストレイン」でこれは映画を観た後に書店で本を見つけてしまってどうしても欲しくてなけなしのお小遣いをはたいて買ったのだが映画での震えるような気持は「知的興奮」というヤツやつだったのだとずいぶん後に気づいた。もちろん本の方も心をじんわりと震わせ続けてくれた。この小説もやはりゴタゴタした人間関係も感傷も無くて極限状態の中でどう判断してどう行動するかということに絞り込まれていてそこにあるのは「知性」とそれに裏付けられた「勇気」だ。ただ「アンドロメダ・ストレイン」は不評だったということで以後、マイケル・クライトンの小説は「ウケ」を狙って娯楽色を強めていったように思う。確かに「ジュラシック・パーク」は大売れだったしまあ、小説は売れてナンボだから。
さてそこで
アンディー・ウイアーの「火星の人」に続く「アルテミス(上)(下)」は雰囲気がロバート・A・ハインラインの「月は無慈悲な夜の女王」に似ていて、きっとこれは「火星の人」と違う風味にしたかったのだと思うが、やはり制約の多い極限状況で自らが持てるもの、要するに「知性」と「心意気」とそれに「身体能力」を最大限に使ってどう問題解決するかを描いている。主人公は若い女性で法の外で生きてはいるが約束は守る人間である。
で、「プロジェクト・ヘイル・メアリー」では再び「火星の人」の風味に立ち返って、というかさらに科学・技術の知識と思考と力を際立だせるべく、互いに相手の言葉がわからない同士で同じ目的を・自分の故郷を救おうと協力する「バディ」モノにすることで余計な夾雑物を削ぎ落しているのだ。
私も昔、留学生との意思疎通に七転八倒したことがあったので実感するのだが、そういう状況下では会話はこの小説のように時制は無視してすべて現在形の・直球のストレートとなり決してグダグダした遠回りの回りくどい反語的表現だとか婉曲表現にはならないっていうかそんなことやってたらレポートも論文もできないのである。いい意味でのみもふたもない会話は快感でこういう会話の在り方も科学・技術のテイストを濃くしているし、むしろその直球のぎこちない会話の中に「読者の側が」二人の気持ちや意思を豊かに強く読み取って行くのだ。くーっ、「この本、良い、良い、良い 」♪

私がアンディー・ウイアーを好きなのは彼が「知性」や「科学・技術」を人間ならではの長所であると肯定的に捉えていて、人間はもっと賢く前向きに生きられると言っているからだ。彼の根幹は「知的な善人」を肯定的に描くことだと思う。
人間よ、反知性主義なんかに負けるな!!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?