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あんたのどれいのままでいい


自由とは奴隷状態からの解放である、と山本七平がどこかで書いておりましたが、自由がイデオロギーとなると、他者からの解放ではなく、他者の追放ともなり得る。イデオロギーとは人の生活を外部から変える思想のことをいいますが、リベラリズムはイデオロギーであります。


自由とはなんぞや

ワイは今自由を噛み締めとる、と誰かが言うのを聞いたら、こいつはきっと「何か」から解放されたのだろうと推測するかと思います。ただの自由、自由そのものなどあり得ません。
自由の定義は何かしらの文脈に依りますが、言い換えると、自由とは文脈に限定されている。
奴隷状態からの解放は自由であり、ロックを生まれて初めて聴いた幼児が我知らず自ずと踊り出す、これも自由であります。
生き生きと自在に振る舞うことを喩えて水を得た魚などといいますが、魚が自由に泳ぎ回るのは水の中という環境が抵抗という限定を与えるからです。
自由とは、環境(文脈)に依り限定された自由であり、ここでいう限定とは他者との関係性の異名であります。奴隷にとっての主人、踊る幼児にとってのロック、魚にとっての抵抗、他者と向き合い、内なる必然から自由を志向するとき、已が立ち上る。
「私」とは自由と同様、他者との関係性のうちにあるという限定があっての「私」であります。故に限定のない、「自由な私」は存在し得ません。
自由な主体とは、自由そのもの、虚構に他ならない。


リベラリズムの虚構性

主人なき奴隷、即ち自由を得た奴隷がもはや奴隷ではあり得ないように、自由な私(他者なき私)とは虚構でありますが、これをリベラリズムの虚構性、または欺瞞と呼んでもいいでしょう。
リベラリズムの自由とは理性(頭の中)で作られたものであり、「私」という現に今ここで生きている主体の外部にあり、「私」の志向する自由、他者からの解放ではなく、むしろ他者の追放という傲慢な側面を持ったイデオロギーであります。
リベラリズム(自由主義)の根底にあるのは神の被造物たる人間が世界を設計できるというヒューマニズム(人間中心主義)ですが、人間を「自由な私」(という虚構)に、世界を「他者」に置き換えると、リベラリズムは「自由・平等・民主主義」といった「理想」を掲げてはいるが、その実、理想を共有していない他者に一方的に隷従を強いる思想である、とは事実が物語っています。
アメリカがイラクのサダム・フセインにしたことはまさに追放でありましたが、かの国に「自由」を齎すどころか、かの国を宗派の異なる国民同士殺し合わせる混沌に陥れましたし、アラブの春、ウクライナでの対露政策も然り、「自由」という錦の御旗を掲げて介入することによって他国の秩序を崩壊させてきたという事実は、リベラリズム(アメリカニズム)の虚構性と欺瞞、独善を象徴しております。
独善とは他者への眼差しの欠如であり、虚構性とは現実との乖離でありますが、アメリカのイラク統治のモデルはGHQであったといいます。乖離の因はGHQという「成功体験」にあったのかも知れません。
戦後のニッポンは虚構の自由に、リベラリズムというイデオロギーに隷従することによって始まり、そして今も続いているのだとすれば、「私たち」が志向する「自由」とは、さしずめサファリパークの自由でしょう。


内なる必然

サファリパークの動物を指して、家畜とも奴隷ともいいませんが、もしサファリパークに人間の生活があったとしたら。
隷従を強いられた奴隷であれば、自由を求めるはずです。内なる必然から自由のために抗う、家畜ではなく人間であれば、抗うはずです。少なくともニッポン人は戦後、皮肉にもそういうリベラルな価値観を教られてきたはずです。
タッカー・カールソンというアメリカの政治コメンテータ―によるロシアの大統領のインタビューを読みましたが、日本のメディアはほとんど触れませんね。当たり前の話、ロシアにはロシアの言い分があり、ロシアを支持するわけではありませんが、他人事ではないと感じました。ウクライナ侵攻により無辜の犠牲があったのは事実でしょうが、賛否はさて置き、彼らは彼らの自由のために、自分たちのものとは異なるイデオロギーに抗ったという事実もまた、見逃してはなりません。
自由を志向する精神は、ひとたび奪われると容易に取り戻せるものではない。そのことは、「戦後」とはいえ外国の軍隊が八十年も駐留し続けている事実が物語っております。
にもかかわらず、
奴隷のままでいい、というのであればこれ如何に。
諦めでしょうか。
自由は内なる必然から生まれる。
皮肉であって欲しい。