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エッセイ:そして僕は途方に暮れる


オーガニック食品宅配サービスの運営会社会長がSNSに福島の処理水を「汚染水」と投稿してちょい炎上、一時株価が下がったのですが、株主(弱小)として申し上げたいのは立場弁えんかい、ってことでして、個人としての言論の自由はあれど、上場企業の会長である以上は、それなりの振る舞いが求められて然るべき。立場は行為を拘束する。
『「である」ことと「する」』ことを思い出しました。
自由であるとはこれ如何に。


「である」ことと「する」こと

1961年刊行『日本の思想』収録の丸山眞男の評論ですが、国語の授業などで読まされたことがある方も少なくないかと思います。話の糸口として簡単に触れますと、「である」こととは身分や権利、定言的な道徳といった状態、「する」こととは自由や権利の行使、政治的、営利的活動といった行為をいいます。静的な「状態」と動的な「行為」、これらは循環的な関係にあります。
債権者がある一定期間権利を行使しないでいるとその権利を失うという民法の時効を例にあげ、自由や権利は行使「する」ことによって初めて自由(権利)「である」と。そして主権というものも同様にまた、行使せずにうかうかしているといつの間にか失うかも知れないと丸山は警告します。今から凡そ60年前の論考です。個人の自由や権利よりも「國體(国柄)」に重きが置かれた戦前の記憶がまだ残っていたのでしょう。時代ですね。
現代に生きる私たちにこのような危機感はあるでしょうか。昨今のゴシップやSNSの投稿を鑑みるに、むしろ自由や権利、主権を行使「する」ことが横溢し、自由「である」個人が充満しているといっていいでしょう。多様性という空気に満ち溢れていると。この空気のなかにあっては、国柄などというものは野暮でしかない。重きが置かれるのは個人であります。


自由「である」故に「する」こと

大手芸能プロダクションの創業者、人気お笑いタレント、トップアスリート、そして映画監督と、連日の性加害の訴えもそうですし、東京都がカスタマーハラスメント防止条例の策定を検討しているという報道がありましたね。
どんな人間関係の根底にも力関係があり、これがなくなることはあり得ませんが、力関係を利用した加害やハラスメントは端的に悪質です。被害を受けた弱い側が声を上げることは正しいし、正しい行為が容認される社会は、きっといい社会なのでしょう。この場合の「いい社会」とは、行為の正しさを社会の成員が共有できるという意味においてですが、いい社会も行き過ぎると、まあ色々なのが出てきますので、かかずらうのも程々が宜しいかと。
アルハラ(飲めや)、スメハラ(におい)、ヌーハラ(麺を音立ててすする)にマルハラ(句点を打つ)というのもあるようですが、先ごろXに「キモい」男性は女性に「キモい」と思わせた時点で加害者だという投稿がありまして、理解できますでしょうか。女性に怖い思いをさせた時点でそいつは加害者である、キモいも同様という主張です。なるほど、「キモハラ」ですね。「キモい」と言われた方もそれをハラスメントだと捉えるだろうに、被害者意識というものは、無謬らしい。自由の妄信でしょう。
自分は自由であると信じる人間は自由ではない、と丸山はいいます。自身のなかの偏見に囚われているのだと。

自分は自由であると信じている人間はかえって、不断に自分の思考や行動を点検したり吟味したりすることを怠りがちになるために、実は自分自身のなかに巣食う偏見からもっとも自由でないことがまれではない

『「である」ことと「する」こと』



そして僕は途方に暮れる

偏見とは、他者への眼差しの欠如であり、他者との折り合いを模索するのではなく、快か不快か、得か損かで他者を判断する、独善であります。多様性とは善の多様化だとすれば、独善は必然となるでしょう。水は低きに流れ、人は易きに流れる。「正しさ」も然り、「自由である」ことももまた、易きに流れ、バラバラとなる。他者への眼差しのない、盲目の個人がバラバラに暮らす社会は「いい社会」でしょうか。
熱力学にエントロピー増大の法則というのがありますが、ごく簡単にいうと自然現象は時の流れとともに、不可逆的に不確実性が増大すると。ですから、「キモハラ」なんてものが一度罷り通ってしまったら、いずれは何でもありになってしまい、するともう稀代の名曲に倣って「途方に暮れる」しかなくなります。
自由とは、多様性とは何であるか。実質のない空気であるとしたら、自由も多様性も崇高なものではなく、ただの空気と成り下がってしまったのが現代であるとしたら、自由とは独善の温床であり、多様性とは不確実性の異名である、とこの空気に水を差して終わりと致します。
熱は冷める、人は死ぬ。時は流れ、日はまた昇る。いくら不確実性が増そうとも、確かなことはある、と考えると、株価の変動ごときに一憂する己が未熟さに恥じ入る次第、何が起きても途方に暮れないよう、精進しよ。