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エッセイ:他者理解についての試論


先日、久方ぶりにお馬◯さんに頭ごなしに否定され、こちらがぐっとこらえたことでお互い笑顔で別れましたが、その刹那に浮かんだ懐疑を書いて参ります。己は正しく、故に己に懐疑を向けない、そんな馬◯を相手にしてはなりません。


「?」に正しい文字か数字を入れる

「R・A・M・O・N・E・?」という文字列を見て、ラモーンズを知っている人であれば「?」には「S」が入ると確信するはずです。しかしラモーンズを知らない人は適切な答えが思い浮かばず、無限の可能性を排除できないままでしょう。では「J・A・P・A・?」だったらどうか。この時点でピンとくる人もいるかも知れません。次に「A・U・S・T・R・A・L・I・?」ではどうかと続き、そして「E・N・G・L・A・N・?」ではどうか、とくればそれぞれの正解は自明のはずです。ですが規則性があるから「正解は自明」と思えてしまうのだとすれば、正しさとはとても恣意的なものだとわかります。なぜなら他の規則性の可能性を排除できていないからです。正しさとは、当座のもの。


正しい答え

ルールが明示されていないにも関わらず正解を自明に感じられるのは規則性があるからだと述べました。規則性からルールを推論し、国名のアルファベット表記を完成させるゲームであるという認識が芽生えたから、「N」「A」「D」を正しいと感じたわけですが、言い換えると、ここでいう正解、つまり正しさとは、これが正解であればゲームとして成立するという「規則」の手触りのことです。この手触りを自明として共有する者同士ではゲーム(コミュニケーション)が成立します。この場合(コミュニケーションが成立する)の規則とは習慣の異名です。習慣(正しい振る舞いとは何か)を共有している者同士の集まりが共同体(家族、部活、企業、ネット掲示板、ファンクラブ、自治会、労組、国家、民族などなど)で、人は個人であると同時に何らかの共同体に属しております。つまり人とは誰かと習慣を共有している者のことをいう。習慣を持たぬ者は人でなしであり、人が人であるためには人は誰かに「正しい」手触りを教わり、習慣を身につける必要があるのです。


規則の手触りはトートロジー

現実の世界で人はこうしたゲーム(習慣)を介してやりとりをしておりますが、この規則の手触りを共有できる集団(共同体)においては「正しさ」(正しい振る舞い)は自明となる一方、手触りを共有していない別の集団、つまり他者にとってはその「正しさ」が自明であるとは限りません。例えば会議で出席者に積極的に意見を求める集団もあれば、意見ではなく空気を読むことを強要する集団もあるように。
共同体によって「正しさ」が異なるのは、その根底にある構造(言語、宗教、哲学、伝統、風土、歴史など)が違うので当然なのですが、習慣を自明とする手触りの「正しさ」とは、手触りを「正しい」と感じられるが故に正しい、といったトートロジーです。習慣が正しいのはそれが習慣であるからといえます。
ある「正しさ」が自明であるのを担保しているのはただの手触りですので、他者に論理的に己の正しさ(したがって他者の誤り)を説明し納得させることなどあり得ません。習慣の異なる他者との間に共有できるものがあるとすれば、意見の完全な一致ではなく当座の部分的な合意のはずです。
部分的であれ当座の合意が可能であれば、他者との共生も可能でしょう。これを妨げる一つが己に懐疑を差し向けない独善的な脊髄反射的振る舞いです。習慣的な、とも言い得ますが、己を無謬とし、己に懐疑を抱かず、他者を見ようとしない振る舞いは珍しいものではありません。


左は左、右は右

世間的には、大江健三郎は「左」で、三島由紀夫は「右」であるらしい。核兵器の使用には多くの人が反対でしょうが、「過ちは繰り返しませぬ」の解釈は「左」と「右」では正反対です。これらの言説が脊髄反射的であるとき、他者の理解はあり得ません。なぜならそこには他者も己もなく、無謬の私という幻影と脊髄反射という単純な回路があるだけだからです。X上で繰り広げられるbot同士の議論と同じで、入力があれば出力を返すだけのただの応酬で、自己欺瞞に他なりません。
例えば、平和とは戦争と戦争の間であるという、筆者はこの命題を支持致しますが、いかなる戦争も認めない、世界は平和であるべきだとのたまう御仁は、戦争を否定した時点で平和を見失うということに気がつかない。戦争を他者と言い換えれば自明ですが、他者を見ない、他者を省みない自己などありえない。自己欺瞞とはこのことです。


場所について

つねに移ろう世にあって、正しさとは当座のものだと申しましたが己も然り、變化し、移ろうものです。
確かなのは身体という物理的存在が今ある「場所」と、場所を取り巻く環境としての「他者」、そして他者と己との「関係」ではないでしょうか。
他者と出会い、他者との関係が立ち上るのは決して国境のない、人が思い描いた世界のような、曖昧な場所ではない。あなたの足許、そこは必ず具体的に名指し得る場所のはずです。


他者理解について

他者理解とは他者とわかり合うことではありません。他者に共感することでも同情することでもありません。知るということです。他者を知り、「正しい」他者との向き合い方を決断する。
理解とは他者と出会い、他者を肯定し、知ることで、己が變化することであるという。他者を、ひいてはこの世界をどうにかしたいという己の考えがあるのではない。他者を知り、己が変わることだという。


鑿を振わねば、大理石の一とかけらも飛び散りはしない様に、言葉は考えに応じてどうにでも動く符牒ではない。

『文学と自分』小林秀雄




でも音楽には、国境はない(多分ね)。