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舞台「ホームレッスン」感想つれづれと。

昨日紀伊國屋ホールで行われている「ホームレッスン」を見てきた。先週日曜日に見てきたので2回目。

(1回目の感想をnoteに書こうと一度メモ書きしたら素晴らしい感想ができたんだけど笑、そのメモを職場に忘れてきたのでこれはまたいつか投稿したいと思う。)

この舞台で大きなテーマとなるのは三上家の100個ある家訓。
帰宅してパンフレットにある家訓を見てみた。
書いてあることはどれも当たり前と言っては当たり前のことが多い。
中には「こんなことまで?」ということもある。

これは仕事で起きた事件で傷ついた母をこれ以上傷つかないために、守るために生まれたものなんだろう。

最初は一つとか二つだったのに子供の成長に伴い増えて行ったのかもしれない。

この家訓は罰で人間をコントロールしようとしてる。
コントロールしなくちゃいけないものなのか。

そのコントロールから母以外の家族は抜け出したい。だから、父は大夢を迎え入れようとした。娘は大夢とのデキ婚でこの状態を崩そうとした。朔太郎は反発することで壊そうとした。

でもできなかった。いや、ひどくなってしまった。

罰で人間をコントロールする。
仕事でもあることだ。
逆がトークン。〜ができたら〇〇をあげるよ。これがうまく働くこともあるし、逆に〇〇のために〜をする、それがなければやらない、となることもある。

コントロールしようとするから拗れるのでは?

実はこの舞台を見ていて毎回苦しくなるのは、我が家にも家訓というかルールがある(あった)からだ。今思い出せるのはこの二つ。
○テレビは8時まで
○夕飯が終わったら1時間家族で勉強する

どれも破綻した。特に二つめは全然普及せず。夫の実家でやっていたことをそのまま踏襲しようとした。でもうまくいかなかった。夫は私が協力しないからだと言った。そこで揉めた。

外発的動機より内発的動機の方が強いし、持続する。
コントロールするということは外発的動機でしかない。でも、きっかけを作るためにはちょっとは必要⁇

ぐるぐるぐるぐる考えて頭がパンパンになる。

我が家には大夢くんはいなかったし、
お母さんのような強さが私たちにはなかった。繋がってるようで繋がっていない家族だ。

家訓をもう一度見てみよう。
お母さんを守るための「家訓」であり、子どもたちが傷つかないように守るための「家訓」でもあるように感じた。

でも、それを罰で縛ってはいけない。

このお話は宗教2世の話にも通じるかもな、と思った。

子どもたち2人とも嫌なら逃げればいいのに。2人とも逃げなかった。大夢と一緒に家から出てしまえばよかったのに。鎖なんて外して逃げて仕舞えばよかったのに。
逃げられない、それが家族なのかもしれない。

今日3回めを見てくる。
お母さんの壊れそうな強さに
家族たちのぶつかり合いに
大夢の「曖昧さを受け入れられない」ところに
もう一回向き合ってくる。

千秋楽のチケット取れたらもう一回見たい。

最初はFANTASTICSの堀夏喜くん見たさにとった舞台だったけど、見れてよかった。
堀夏喜くんも存在感があった。

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