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のりおちゃんのこと

のりおちゃんは、わたしの守護霊的な何かである。わたしにもその姿は見えない。声も聞こえない。そもそも守護霊なのかどうかも分からないが、物心がついた時には近くにいた。そして、わたしに人生の転機が訪れた時、それとなくメッセージをくれる。

人知を超えた能力がわたしにはあるらしい。昔から周りの人にそう言われていた。わたしに特殊な力があるように見える原因の99%は、わたしが自閉症であることに起因している。残りの1%はのりおちゃんであろう。

のりおちゃんという名前は、わたしが勝手に名付けた。西川のりおのオバQのコントが好きだったので、霊的な存在というところから、のりおちゃんと呼ぶことにしたのだ。

のりおちゃんはわたしの「イマジナリーフレンド」ではない。友達の代わりに遊んでいる感じではないからだ。どちらかというと、保護者の大人のようである。イマジナリーフレンドは、実在するかのように鮮明に目に見えるというが、のりおちゃんは姿も見えず声も聞こえない。ただ近くにいる気配がするだけだ。そしてわたしが中年になった今でも、変わらずそばにいる。

今日は大切な検査の日だ。のりおちゃんも着いてきてくれるだろうか。ここしばらく気配がなかったので、わたしは少し心細くなっていた。のりおちゃんに来てほしいとき、わたしは神社にお参りすることにしている。そうすると、のりおちゃんが戻ってきてくれる。霊的なエネルギーを、神社から補充できるのではないかとわたしは考えている。RPGでいうところの、ライフが回復する泉みたいな感じで。知らんけど。

わたしは大阪府の出身である。大阪南部の「河内」と呼ばれるエリアに生まれた。ケンカをしているわけでもないのに、語尾にボケとカスが付く。田舎のくせに柄が悪い。最悪な地域である。

河内の小学校教諭の母のもとに、わたしは生まれた。父親は写真でしか見たことがない。家族は4歳年上の姉がひとり。そして母方の祖父母も同居していた。祖父はサラリーマンだったが、曾祖父は著名な書道家だったという。昔は住み込みの書生さんが何人も家にいたそうだ。わたしが生まれたとき、曽祖父はもう亡くなっていた。

母親は気難しい人で、火垂るの墓の和泉のおばさんみたいな雰囲気がある。職業がら言葉遣いにとても厳しく、わたしは他の子たちのようにボケとかカスとかワレとか、そんな言葉は使ったことがない。

ゲームや漫画も、わたしの家では禁止だった。わたしが小学校に上がったぐらいの頃に、赤と白の初代ファミリーコンピューターが発売されたが「目が悪くなる」「姿勢が悪くなる」と、学校では推奨されていなかった。母は教え子にゲームをしないように言っていた手前、自分の子供にいいとは言えなかったのだろう。

母親が定年した年、お盆に帰省したわたしは、母から「一度でいいからクレーンゲームをやってみたい」と請われ、スーパーのゲームコーナーについて行ったことがある。大阪府下の田舎町では、学校の先生は有名人だ。どこに行っても教え子や元教え子、その親や兄弟にであう。在職中はゲームコーナーに行きたくても、人目が気になって行くことができなかったのだ。

わたしも小さいころから「先生の子供」として育ってきた。同級生の家に集まってゲームをやったり、漫画を読んだりすることも禁止されていた。母親にバレると親同士で根回しされ、次からは誘ってもらえなくなった。ゲームセンターに行ったのをよその父兄に見つかり、母の職場に苦情の電話をかけられたこともある。大人になってから、学校の先生の社会的信用の高さに驚かされたが、子供の頃は嫌な思い出しかない。

わたしが東京の大学を志したのは、親の知り合いがいないところに行きたかったから、という理由がひとつにある。

わたしが思春期の間、のりおちゃんはわたしの前にあまり出てこなかった。地元を離れたい一心で、休日や睡眠時間もけずってわたしは猛勉強をしていた。そんな状況で、のりおちゃんは出る幕がなかったのかもしれない。

霊的な存在を再び感じたのは、祖父が亡くなった時である。わたしが36歳の時だった。

わたしの実家は三世帯住宅だ。母が住む実家の隣家に、祖父母と姉の家族が住んでいる。二軒の家は廊下で繋がっていて、それぞれの家族は独立しながら自由に行き来ができた。

祖母は整理整頓が全くできない人だ。今ならADHDと診断されるようなタイプだろう。祖父が寝たきりになってからは、祖父母宅はごみ屋敷同然の有様になっていた。

祖父が亡くなり、葬儀の段取りをすることになった。「そういえば、セレモニーホールの会員証があったよな」と母が言い出した。

祖父は10人兄弟の長男である。曾祖母が亡くなったとき、祖父はセレモニーホールの会員になっていた。四十九日や一周忌・三周忌など、親せきを集めて法事を行うときに、セレモニーホールを利用する機会が多いだろうと考えたからだ。自宅は人を呼べる状況ではなかった。

祖母は書類の管理も全くできない。会員証や契約書のたぐいも祖父が管理していた。祖父がいない状況では、セレモニーホールの会員証がどこにあるのか見当もつかなかった。しかしわたしは、それらを一発で探し当てたのだ。どこにあるかはなから知っていたかのように。もちろん、わたしは会員証の場所なんて知らない。何しろセレモニーホールの会員になっていたことすら知らなかったのだから。

祖父母宅には、書道家だった曾祖父が残した硯箱がいくつもある。美しい蒔絵や彫刻が施された重厚な木箱である。小学校の頃に使っていた”お道具箱”を大きくして高級にした感じだ。祖母宅の仏間に入ったとき、硯箱のひとつがわたしの視界に入った。箱は赤茶色で、座卓の下に押し込まれている。わたしは無性にその箱が気になり、机の下から引っ張り出した。箱には鎌倉彫で牡丹の花があしらわれている。蓋を開けると、中にセレモニーホールの契約書類と会員証が入っていた。

それだけではない。仏間の座卓の下から会員証を発見したわたしは、その流れて遺品整理をはじめた。ふと目についた戸棚を開けたわたしは、中には古びたスーパーのレジ袋が突っ込んであるのを見つけた。今は無き「ニチイ」のものである。袋の中を確かめると、大量の綿と、干からびた小枝のようなものが入っていた。わたしはレジ袋をゴミ箱に捨てようとした。しかし、その手を制止する力を感じたのだ。

「のりおちゃん?」

この袋にはなにか大切なものが入っている。そう直感したわたしは、袋を祖母のところに持っていった。

「これは…へその緒や。」

小枝のようなものは3本あった。わたしの母は3人姉弟である。祖母はわが子のへその緒を、レジ袋に入れて戸棚に突っ込んでいたのである。3人のうち一人は子供のうちに亡くなっている。3人で唯一の男の子だった。祖父は息子が亡くなった時、声をあげて号泣したという。祖父が泣くのを見たのはその時が最初で最後だったと、祖母が話していた。

へその緒は桐の箱などに入れられているのが普通だろう。しかし、長期間ぞんざいに扱われたせいで、箱は劣化し粉々に崩れ去っていた。

その後、わたしは祖父のへその緒が入った桐の箱も別の場所から発見した。へその緒と一緒に、祖父の証明写真が入っていたので、祖父のものとすぐに分かった。祖父は自分の死後、こうなることを予想していたのだろう。まるでタイムカプセルである。

遺体を焼くとき、棺に故人のへその緒を入れる風習があるそうだ。祖父の棺にも、祖父と子供たちのへその緒が入れられた。

わたしは、へその緒を見つけた直後に、祖父方の先祖の位牌を5柱と、高祖父の野辺送りの際に曾祖父が着用した白い紋付袴も発見している。

今、わたしのもとにいるのは、ひょっとするとのりおちゃんではなく、亡くなった祖父なのかもしれない。しかし、あの棚の中に子供たちのへその緒が入っていたことは、祖父も知らなかったはずだ。知っていたらどうにかしようとしていただろう。

祖父には、近くに自分の娘がいる。長年同居してくれたわたしの姉と、ひ孫もいるのだ。ずっと実家を空けているわたしに、祖父が憑く理由は無い。だから今、ここにいるのはのりおちゃんだとわたしは思っている。

今日の検査はのりおちゃんが着いてきてくれる。ひとりのときよりもずっと心強い。わたしは車に乗り込み、八幡竈門神社を後にした。

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