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時間の空白を埋める

いつも愛読している日経新聞火曜日連載の「こころの健康学」。執筆者は認知行動療法の専門家・大野裕先生。9月27日のタイトルは「仕事以外の楽しみを持つ」だった。

内容は、今が人事考課の時期であるという話に始まり、上司による評定が自分の想像以下となり、がっかりする、というもの。努力していたはずなのに上から評価されていなければ「落ち込むのは当然」と大野氏は説く。意味のある日々を送る上でも「仕事は人生の一部でしかないこと」にも目を向けてほしいと綴られている。

相談者の中には、心の不調を機にジムや農作業を始め、元気になった人もいるという。何か新しい趣味や打ち込めるものがあれば、そこから新たな人間関係が生まれ、世界も広がる。それが生きがいになる。「仕事以外に楽しめるものがあるとずいぶん違った人生が送れるはずだ」と述べている。

私は最近、ピアノをまた弾き始めた。何十年とご無沙汰していたが、親子関係のしんどさに心が迷走してしまっていたところ、親友から「何か新しいことを始めたら?」との助言を受け、思い立った。

久しぶりに鍵盤に触れる前は、「もうずっと弾いていなかったし、指も動かないだろう」と半ばあきらめていた。しかし、弾き始めると記憶の底に眠っていた懐かしい曲が次々と湧いてくる。指は当時ほどは動かない。でも暗譜で弾けた。我ながら驚いた。

弾いているさなかは、ただひたすら「次の音を丁寧に弾きたい」との思いで、鍵盤を見つめていた。頭の中に聞こえる次の旋律を手に反映させるという作業を繰り返した。少し前までの私は、時間が生じるたびに辛い記憶や悲しい思い出にさいなまれていた。でも、弾いている瞬間は、ただただ頭の中は音楽でいっぱいだった。

人は過去の出来事や未来への不安が妄想となり、自分で自分を傷つけてしまう。その「魔の時間」に魂を売り渡さないためには、その人なりの方法で時間を埋めるのが良いのだろう。私の場合、ピアノを弾く時間が、空白を優しく埋めてくれるようになっている。

(日本経済新聞2022年9月27日朝刊)

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