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私たちは分断を越えられるのか?〜15年前の学生ユース活動を経て、いま〜

若き日の思い出

ちょうど15年前。続々とご縁あって出会った仲間たちは、私を含め"学生ユース団体"と呼ばれる活動をしていました。

環境問題・貧困問題・保健医療・国際開発、はたまた地域活性などなど、それぞれの課題意識で精力的に活動していて、そのエネルギーたるや!いま思い返してもアツかったのですが、Facebookもまだ日本語版がリリースされる前。驚くほど横の繋がりがありませんでした。

相互に複合的に絡み合っているんだし、「あの活動は自分たちとは違う」と線を引き合うのではなく、一度分野を超えて集まらない?!と一堂に集まる企画を主催。


準備期間1ヶ月と無茶な企画でしたが、1年がかりで世界の若者を集めたサミットを準備していた下地もあって、複雑さを扱う技術など学びながら、知恵や経験を掛け算するためのプロセス・・などなど今考えても贅沢な時間空間をぎゅぎゅっと体験することができました。
(その名も、Japan Youth Summit for Sustainability. 「サステナビリティ」ってマジックワードを使ったっけ。) 

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↑ 世界学生サミットStudent Summit for Sustainability 2007の写真

当時からあったのは、"「問題」を「問題」として取り扱う限りに越えられない"のに、声高に「問題」を扱いがちなベクトルの違い、想いの熱量に比べて現実が動かないことなどへのもどかしさでした。

それから月日を重ねて、、

私自身、七転八倒しながらも、あのとき絞り出した仮説を実証しつつあるな、と思います。 
政府機関や大学、企業、といった立場を越えた仕掛けや、"ビジネス"を課題をチャンスに変えるチカラに使った取り組みなど。。

15年前のあの日に願った未来を手繰り寄せている実感が持てているのは幸せなことだな、と思います。

が、しかし!!
それでもなお、もどかしさをそのままに立ちはだかるものがあります。
それは、私たち一人ひとりの中に無自覚にはびこる

「当事者」と「他人」を隔てる分断。

私たちの中にある分断

「障がいをもった人」とそうではない人
「LGBT(Q)の当事者」とそうではない人
「震災に遭った人」と「そうではない人」
「子育てをする人」と「そうではない人」
「病気である人」と「そうではない人」
「当事者の家族である人」と「そうではない人」
「世界の歪みを目撃した人」と「そうではない人」
「何かを何とかしたい人」と「そうではない人」
・・
そして「自分」と「自分以外の人」

分断は幾重にも折り重なって、さらには

「わかるはずもない」
「わかりえない」
「わかってほしい」
「知ってほしい」
「いや、わかった風な顔をするな」・・!!!


過去の痛みや悲しさ、いくばくかの期待や希望やそれを裏切られた絶望、線引をすることで保たれる安全領域・・
声にもならない叫びが渦巻いていて、
私たちは、目の前の「いのち」をまっすぐに見えなくなってしまっているのかもしれない。
そう危機感をもって感じています。

次の世代に何をのこすのか?

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    ↑私にとっての次世代という名の「未来」そのもの。息子。

コロナもあって、『これまでの延長線上には生き抜けられないよ』というメッセージは俄然伝わりやすくなったけど、その分残酷なまでに浮き彫りになった「分断」の深さたるや。(ここの議論は割愛w)


兎にも角にも

「このままの世界をこれからの世代に残してなるものか」

と強く想うのです。

新しい出会いの中で

そんな中、ちょうど1年前を発端に始まった流れは、この分断を越えたいと想う新しい同志をつなぎ始めました。

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      ↑この半年で生まれた映画「ふたり〜あなたという光」

そして私たちに新しい仮説、「映画」と「対話」を組み合わせたあるアプローチにも導いてくれました。


無類の映画好きが講じて、映画プロデュース。本業で培ってきた立場を越えて「自分ごと」を連鎖させていく技術や、私自身の人生を支えてくれた「人生のご褒美」ともいえる出会いの数々が総動員されて、ここに新しいconnecting dotsが立ち現れつつあります。 


(あの15年前の私がきいてビックリするような未来が、いま起きてるのですが、それはまた別の機会に。)


p.s. そんな中、分断を超えるための関連イベントを開催しました。
日本財団のページにもご紹介いただきました


Cover Photo by Mario Gogh on Unsplash

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