見出し画像

待ちに待ったパパの帰国。
おめかしして、空港までお迎えに行って、感動の再会!

からの一転。道中の癇癪は延々止まず。やっとお土産に機嫌が直り…とジェットコースターのような1日。

翌日は今日は、朝から一面雪景色に大はしゃぎ!
人生初の本格的な雪だるまづくりにも勤しんで、大満足の1日に。

そんな日の最後にもう寝ようって所で、
「せっかくパパが帰ってきたのに遊んでくれない!」
と大号泣の娘(6)。

一個一個、感情を拾い受け止めて、目を見て、抱きしめて。しばらく落ち着くまで待ったあと。

「ママの気持ちも聞いてほしい」って
水が半分入ったコップを持ってきて見せて話しました。

コップの水を「まだ半分しかない」とみるか「もう半分もある」とみるか(使い古された話)

「・・ちゃんは、このコップをみて何て言ってる?
 蛇口をひねればすぐお水が出るからかもしれないけど
 "少ない!もっと入れて!"ってよく言ってるよね。」

「もしお水が全然出なくなって、一滴一滴飲めるお水を
 集めてきたのがこのコップだったらどう思う?
 同じように"少ない!これしかない!!" って文句言うの?」

「いつもあれがない!これがない!これしかない!してくれない!って
・・ちゃんが、"ない!ない!"ってばっかり言うのがママはとっても悲しいのよ。」

ちょうど前日、空港道中に起きた諍いの話も交えながら、抱っこしたその腕はそのままに、彼女の表情を確かめながら...

それでも最後は、分かってなくてもOK、想いの密度だけでも伝われ、と祈りながら話しました。


すると、思いの外真っ直ぐな瞳で、ちゃんと母の切なる想いを受け止めてくれた娘。

自分のいつもの「でもね!」って口グセすらも、同じ「あるものを受け取らない」言葉だと知って、一生懸命言い換えようとしてくれる姿に、こっちが泣きそうになってしまいました。

ちょうど今日。カナダに来た理由、名前に込めた想いなど、尋ねられて色々ゆっくり話していた私たち。

この日だったからこそ、この日の母娘だったからこその分かち合いの時間になったように思います。

魚が水を知らないように、私たちは自分のこと(脳のクセ等)を知らない

「ないもの」ばかり探してしまう脳のクセ(の固定化)の話は、中高生向けにも、ビジネスパーソン・経営者向けにも、と話し続けている「いつもの話題」。

毎回、相手の向こう側に我が子や彼らが生きる世界を想って話すのにも関わらず、直接に伝えるのは初めてだったと気づきました。

先日息子(3)のヘッドベット(頭突き)に気絶しそうになって、その末恐ろしくなった経験もまだ生乾きだったからか、

「いかに大切なことを彼らに遺すか」が、リアルな問いになってたからかもしれません。


そんなエポックを創り出した3歳児は、真剣に話す母と姉を横目に、奪ったコップの水を一人プハーっと飲み干していました笑。

Zoomミーティングに乱入。一人肩によじ登る息子(3)。

とにもかくにも、「娘へ」と向けたまなざしのはずが、昔の自分にも重なって、その温かさも危うさも感じた1日。  

「子育て」だなんて、「教育」と同様に、だいぶ前時代的な一方的な概念がうっすら見えて、使いたくない言葉ですが、世代の間でどんな知恵の分かち合い、学び合いをするか、には飽くなき探究心を注いでいこうと思いました。

忘れたくない、忘れてはいけない、と備忘録まで。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?