僕らはニュースを消費している
「ジャーナリストは因果な商売だよ。誰かに不幸な事が起きたり、誰かが悪さをしないと飯が食えない」
仲良くしてもらっていた週刊新潮の老記者は、山崎のロックを飲みながら、僕にしばしばそう話した。
「それはどうかな國安さん。ジャーナリストが飯を食えるのは、対価を払う者がいるからで、要するに不幸や悪意を必要としているのは我々で、業が深いのは、受け取り手の方だよ」
僕は親ほどの歳の差がある彼に切り返す。まあ、僕も若かった。
「なるほどなぁ。でも受け取り手っていう点じゃあ、おあいこだなぁ」
「というと?」
「ジャーナリストは受け取り手の興味が沸く話を選んでる。『 ありふれた不幸じゃネタにならない』って振るいにかけるわけだ。これを業の深い所業と言わずして何と言うよ」
そんな感じで、ああでもないこうでもないと、アルコールを燃料として語り明かすのは、とても楽しい時間だった。
彼は、しばらく前に彼岸へ旅立って行ったが、そこでも、取材しているんだろうな。「根っからの記者」という言葉が相応しい、そんな人だった。
さて、時折noteでコメントのやり取りをする記者の方が、ある記事を書いた。
奪われた息子の命 熊谷ひき逃げ事件
事件が起きたのは10年前の2009年9月30日。場所は埼玉県熊谷市の市道だった。この日、小関代里子さんは最愛の息子を「ひき逃げ」という犯罪行為によって突然奪われた。
小関孝徳くん。サッカーに打ち込む、まだ10歳の少年だった。
孝徳くんは代里子さんにとっての、たった一人の家族だった。そのかけがえのない家族を奪った「犯人」はしかし、未だに捕まっていない。事件から10年が経った今もー。
出典元:「未解決」の真実を求めて ① 迫る時効 熊谷ひき逃げ事件 内山 裕幾 / 記者
記事では、時効が迫る中、被害者の母親がブログを通じて声をあげたことをきっかけに、様々な情報が集まり、警察の杜撰な捜査も明らかにされている。
社会には悲しい現実というものがある。警察にとって「ひき逃げ」「死亡事故」は稀有な案件ではないし、法律上でも殺人と過失運転致死では重みも扱い方も違う。警察に「ありふれた不幸」という油断があったとしてもおかしくない。
同じことはメディアにも言える。被害者の母親のブログが話題になるまで、事件の続報や詳報が大きく報じられなかったのも「ありふれた不幸」として片付けられてしまったからであろう。
かたや、警察やメディアがそうした認識を持つに至るのは、我々の社会がこの出来事を「ありふれた不幸」として扱うであろうと思っているからであり、実際我々は、ある出来事で騒ぎ、いつも間にか忘れ、別の出来事に目を向け、という事を繰り返し、ただただニュースを消費している。
しかしだ。
痛みを味わっている人間にとって「ありふれた不幸」なんてあってたまるか!
自分の痛みを消費なんてされてたまるか!
僕も自戒を胸にしつつ、この記事に注目していきたいと思う。
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